前 奏 招 詞 列王記上19章18節 讃 美 新生120 主をたたえよ 力みつる主を 開会の祈り 讃 美 新生384 語り伝えよ 主の祈り 讃 美 新生570 たとえばわたしが 聖 書 ローマの信徒への手紙11章1~12節 (新共同訳聖書 新約P289) 宣 教 「恵みによる選び」 宣教者:富田愛世牧師 【では、尋ねよう】 聖書の中には、何度も出てくる言葉があります。今回の箇所も「では、尋ねよう。」という言葉で始まっていますが「では」という言葉で始まっている箇所がどのくらいあるのかと思って、ローマの信徒への手紙の最初から見てみました。 隅々まで調べたわけではありませんが、「では」という言葉で段落が始まる箇所が全部で14か所ありました。他にも「ところで」とか「このように」「このようなわけで」といった言葉も目立っているように感じましたが、それぞれに3、4回しか出てきませんでした。 たくさん出てくるからどうだ、という事はありませんが、ちょっと気になったので調べてみただけです。聖書の読み方には、様々な読み方がありますが、こんな風に言葉にこだわってみても面白いのではないかと思ったので、紹介してみました。 本題に入りたいと思います。ここでパウロは「では、尋ねよう」と質問形式で話を始めているわけですが、特定の相手に対して質問しているわけではありません。 また、読んでいる者としては、読者に対する質問かなと思うかもしれませんが、そうではなく、仮想の敵に向かって語っているのです。そして、もう一度、話題を元に戻してユダヤ人の救いについて語ろうとしているのです。 何を尋ねているのかというと、次に書かれているように「神は御自分の民を退けられたのであろうか」と仮想の敵に向かって尋ねるのですが、すぐに「決してそうではない」と否定しているのです。 「御自分の民」とはすでにお分かりのようにユダヤ人を指しています。パウロ自身がユダヤ人なのですから、次の所で「わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」と語り、決してユダヤ人が退けられているのではないという事を証明しているのです。 【エリヤの尺度】 さらにユダヤ人に対して説得するため、ヘブル語聖書の列王記上19章10節を引用しています。3節に書かれている言葉は七十人訳聖書の要約的な引用になっていますので、新共同訳聖書にはどのように書かれているか読んでみたいと思います。 「エリヤは答えた。『わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。』」 北イスラエル王国のアハブ王は妻であり、異教徒であるイゼベルの言いなりになって、イスラエルにいた主の預言者を皆殺しにし、バアル礼拝やアシェラ礼拝を導入しました。それに対して預言者エリヤはアハブ王に意見し、主に立ち返るように勧めました。 その後、いくつかの出来事が列王記上の17章以下に書かれているので、どうぞ後で読んでいただきたいと思いますが、最終的にはイゼベルに命を狙われたエリヤは、神の山ホレブに逃げ込み、そこで主の言葉を聞くことになるのです。パウロが引用した列王記上19章10節はその答えです。 エリヤは、自分が置かれている境遇、非常に不利な状況を神に訴えているのです。しかし、神の答えは「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」という言葉でした。 エリヤは、不安と恐怖、そして、行き詰まり感の中で、自分の事しか見えなくなっていたのかも知れません。しかし、神の目には「残された七千人」がいたのです。七千人という数を見ると、たくさんいるように感じるかもしれませんが、この数字は文字通り受け取るものではなく、象徴的な数字です。神にとっての完全数が七ですから、残された者の完全さが表されているのです。 実際の人数は分かりませんが、残された者がいる、神によって選ばれ残された者がいるという事が大切なのです。ローマの信徒への手紙9章27節や29節にも「残りの者」について書かれています。 少数派、マイノリティかも知れませんが、そこにこそ意味があるのです。人間の思いによって自信を持ったり、安心感を得たりするのではありません。人間的には無理だと思えるようなこと、不可能だと思えることを可能にされるのが神なのです。 【自分の欲求】 5節には「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。」とあります。この選ばれ、残された者は恵みによるのであって、決して行いによるのではありませんと、はっきりと語るのです。 7節には「では、どうなのか」ともう一度、問いかけています。イスラエルは求めたものを得ることができず、選ばれた者がそれを得たというのです。 8~9節にかけて、ヘブル語聖書を2ヶ所引用しています。この引用もパウロの解釈が入った引用で、8節はイザヤ書6章10節を中心として、申命記29章4節と、イザヤ書29章10節の影響があると考えられています。 そして、9節は「ダビデもまた言っています」と書かれているように、詩編69編23~24節が引用されています。 パウロの考えは、ユダヤ人は救いから排除されているわけではない。しかし、「鈍い心、見えない目、聞こえない耳」になっていて、神からの呼びかけに心を開くことができず、目の前にあっても見ることができず、その声が響いているにも関わらず、聞こえていないのだというのです そして、詩編の引用については、本来の意味としては、敵対者に対して神の「罰」が下るようにと祈り求めていますが、パウロはユダヤ人に対して、彼らが福音を受け入れず、神の敵対者となっているけれど、回心と究極的な救いを望んでいるのです。 神の働きに対して、心が鈍く、目が見えず、耳が聞こえない状態になっていたとしても、神の働きは変わらずユダヤ人にも働いているのです。そして、救いに入れられることを、忍耐をもって待っておられるというのです。 【ユダヤ人のつまずき】 11節では、さらにもう一度「では、尋ねよう」と問いかけています。1節と同じように対象者がいるのではなく、仮想の敵に向かって語っています。 ここには「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。」と問いかけますが、すぐに「決してそうではない」と否定しています。 かたくなに福音を否定し、逆らうユダヤ人には、救いはないのだろうかと考えるかもしれないが、そんなことは決してないのです。つまずくことはあるかもしれませんが、倒れこんでしまうことはないのだと語るのです。 私たちは、それぞれの信仰生活の中で、何かにつまずいてしまうと、もうダメだと思ってしまい、諦めてしまうことが多いのかも知れません。特に信仰という括りの中で考える時、自分で自分を断罪してしまうことが多いような気がするのです。 しかし、一般的な事柄と同じように、失敗したり、つまずいたりすることは決してマイナスの出来事ではないはずです。 先日「孤独のグルメ」というドラマを見ていたのですが、千葉県旭市の漁港を歩いていた主人公が、漁船の上で新前漁師がベテラン漁師に「今日はミスしてすみません」と謝っていました。するとベテラン漁師が「失敗してもいい、そこから見えることがいっぱいある。失敗しないことが、一番の失敗だ」というセリフがありました。 信仰も同じことだと思います。私たちは様々なことにつまずくのです。しかし、神は私たちを見捨てないお方ですから、私たちはつまずいても、倒れることはないというのです。 ユダヤ人のつまずきによって、異邦人に救いがもたらされました。失敗した人を見て学ぶこともできるのです。そして、そのように神に逆らう者が救われる時、そこには大きな喜びが溢れるのではないでしょうか。 祈 り 讃 美 新生300 罪ゆるされしこの身をば 献 金 頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の 祝 祷 後 奏
2022年10月16日 主日礼拝
投稿日 : 2022年10月16日 |
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