前 奏
招 詞   詩編85編10~12節
讃 美   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
讃 美   新生654 すべてを神に
主の祈り
讃 美   新生301 いかなる恵みぞ
聖 書   マタイによる福音書5章3節
                     (新共同訳聖書 新約P6)
宣 教   「この様な時だからこそ―何を信じるの-」      宣教者:富田愛世牧師

【このような時】
 今日は特別礼拝という形で、普段、礼拝に来られない方や地域の方をお招きしたいと考えて聖書の箇所も選んでみました。メッセージのタイトルも「この様な時だからこそ」という事に焦点を当ててご一緒に考えていきたいなと思っていました。
 そして、この様な時とは、どんな時なのかを考えてみたのです。おそらく、ここにいる多くの方にも同じ質問をしたとするなら「コロナ感染症」や「ウクライナ危機」という事がすぐに思い浮かぶのではないかと思います。
 私も「コロナ感染症」や「ウクライナ危機」について、少し調べて語ろうと思っていたのです。そうして、調べているとそれだけで1時間でも2時間でも話せるくらい、様々なことが出てきました。
 そして、副題として掲げられている「何を信じるの」という言葉につなげることができるのか考えて、文章を書いていたのです。書きながら、そもそも「コロナ感染症」や「ウクライナ危機」だから、信じられなくなったことがあるのかな?と疑問が湧いてきたのです。
 コロナだから信じられなくなったことやウクライナ危機だから信じられなくなったことなど、ないのではないかと思いました。
 コロナだから行動が制限されたり、出来なくなったりしたことはたくさんあると思います。教会でもお昼ご飯を一緒に食べられなくなったり、毎年やっているバザーや様々なプログラムができなくなったりしています。でも、何かを信じられなくなったわけではありません。
 ウクライナ危機の影響も様々なところに出ていて、不自由な思いをしているかもしれませんし、ミサイル攻撃などの被害映像を見たり、死者が何人、ケガ人が何人出ました、という報道を見聞きすることによって、心が痛み、やりきれない思いになったりします。しかし、何かを信じられなくなったわけではないと思います。
 それより、政治家の発言の方が信じられないのではなでしょうか。最近の報道によく出てくる言葉として「統一協会と関係ありません」とか「大陸八割」などという発言は政治という場面だから、ごまかしが効いているようですけど、私たちが小学校に通っていた頃「学級会」とか、一日の終わりに反省会のような形で「終わりの会」をやっていましたが、そこでは許されない発言だと思います。

【貧しい人が幸い?】
 今、私たちの周りに起こっている様々な問題を見て「この様な時」と捉えて、それらを理由に、何かを信じられなくなっていると思っていましたが、そうではなく、いつの時代にも共通するものとして、何かを信じたり、信じられなかったりしているのが人間社会なのではないかと思わされるのです。
 そして、私たちは何かに対して「信じる価値があるのか」という疑問を持ち、信じられないでいることのゆえに不安を抱えているという点については、共通しているではないかと思います。
 さて、聖書に目を移していきたいと思うのですが、私たちの持っている新約聖書と呼ばれる書物は、大まかに言って、今から二千年前に書かれたものです。
 その時代にも、今と同じように不安を心に抱いている人はたくさんいました。そのような人々に向かって、イエスは今日の聖書にあるように「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と語られたのです。
 今回の特別礼拝の案内ハガキにも書きましたが、「貧しい人が幸い?」などと言うなら、ほとんどの人が「どういう意味」「意味不明」と答えるのではないかと思います。
 私も客観的に見るならば、意味不明だと言わざるを得ないと思います。単純に豊かな方がいいに決まっていると思っています。貧しくて良いわけがないと思います。ところが、この聖書の言葉にはもう一つ、重要な言葉が書かれています。それは「心の」という言葉なのです。
 イエスがここで語るのは「心の貧しい人」が幸いだというのです。でも、そんなことを言われるなら、ただ「貧しい」というより、もっとひどい言葉に感じるかもしれません。
 昔からのことわざに「武士は食わねど高楊枝」などという言葉があります。一面ではやせ我慢に感じますが、お金に目がくらむような人よりも、経済的に貧しくても、誇り高く生きることの方がかっこいい生き方だということを語っています。
 こういう人は「心の豊かな人」だと思いますし、こういう人が幸いな人だと思うのです。しかし、イエスは「心の貧しい人」が幸いだというのです。

【心の貧しさ】
 一体どういうことなのでしょうか。一つの答えは翻訳の問題です。元々新約聖書はギリシア語で書かれていました。「心」と訳されている言葉は「霊」と訳すことの多い言葉だという事です。
 霊において貧しいという事です。霊において貧しいとは、神との関係において貧しいという事を語っているというのです。しかし、これもまた、解りにくい言葉だと思います。
 聖書に限らず、翻訳というのは本当に難しいものなのだろうと思います。私は外国語が苦手なので英語はもちろん、聖書の原語であるギリシア語やヘブライ語もよく解りません。しかし、この聖書が語る「心の貧しい人々」とは「心が貧しい」と語っているのか、それとも「心における貧しさ」を語ろうとしているのか、これは重要な点だと思うのです。
 「心における貧しさ」だとするなら、先ほど例に出した「武士は食わねど高楊枝」的な謙遜さやへりくだった姿勢を指して、イエスはそのような心の在り方を勧めていると解釈することができると思います。
 そのような姿勢も大切なものだと思いますが、イエスが語っているのはそういうことではないようなのです。心が貧しいという事を率直に語っているようなのです。
 そして、この「心」という言葉は「霊」と訳せると言いましたように霊の貧しさを語っているのです。霊が貧しいというのは、神との関わりが貧しいという事です。
 宗教学の立場から人間の本質を語る時、人間は宗教的な生き物で、本能的に「神」や「仏」を求めているというのです。つまり、神との関係が貧しいという事は、神との関係を素直に求められないという事なのです。そして、その事実を知ることが大切なのです。
 イエスの言葉で語るなら、神との関係を求めたいけれど、求められないという現実を知ることが幸いなのだという事です。
 良い人にならなければならないと思い込んで、自分を飾ったり、良く見せようとしたりするのではなく、ありのままの姿を神の前にさらけ出していくという事が大切であり、そうできるならば、それが幸いなことなのだと語っているのです。
 
【幸いなこと】
 そして、聖書には「天の国はその人たちのものである」と書かれています。「天の国」とは何でしょうか。聖書の中には他に「天国」や「神の国」といった表現が出てきます。厳密に言えば、少しずつ意味合いが違っていますが、今日は同じ意味のものとして見ていきたいと思います。
 イエスは聖書の中で天の国について「たとえ」を用いて説明しています。たとえを用いるのは、難しい事柄を分かりやすくするのが目的です。しかし、聖書にあるたとえ話はパレスチナという地域、風土、文化が背景となっているので、私たちには余計に分かりにくくなっています。
 今は、それらを一つひとつ説明する時間はありませんが、一つ、たとえ話ではありませんが、ファリサイ派という当時のユダヤ教の保守的で、宗教的に厳格な立場に立つ人たちがイエスに質問した話を簡単にしたいと思います。
 ファリサイ派の人がイエスの所にやって来て「神の国はいつ来るのか」と質問をしたそうです。それに対してイエスは「神の国は、見える形では来ない。…… あなたがたの間にあるのだ」と答えたのです。
 「あなたがたの間」という事は、人と人との関係性の中で実現するものだという事なのです。私はこの関係性こそが、聖書の語る愛だと思っています。キリスト教が愛の宗教だと言われる理由はここにあると思うのです。
 この「関係性」「愛」ということを「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」という言葉に当てはめるなら、良い人になりたいと思ってもなれない自分であったり、愛をもって人に接したいと思っていても、なかなか積極的になれなかったりというジレンマや自分の弱さを受け止めることが大切なのではないでしょうか。
 つまり、自分の中にある「心の貧しさ」をきちんと捉えることが大切であり、神はそのような「あなた」を受け入れてくれる。だから「幸い」なのだという事なのです。
 良い人になれない、親切に接することができない、優しい言葉かけができない、他にもできないと否定的になることがたくさんあります。しかし、視点を変えるなら、親切にしてくれる人がいた、優しい言葉をかけてくれる人がいた、という経験はないでしょうか。
 受けたことに感謝することから「関係性」は始まるのです。そして、忘れてはいけないのは、初めに神があなたを愛してくださった事です。

祈 り
讃 美   新生426 語りませ主よ
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏