前 奏
招 詞   出エジプト記18章11節
讃 美   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
讃 美   新生362 主のみ名を伝えん ハレルヤ
主の祈り
讃 美   新生134 生命のみことば たえにくすし
聖 書   ローマの信徒への手紙11章13~24節
                   (新共同訳聖書 新約P290)
宣 教   「寛大な神」             宣教者:富田愛世牧師

【異邦人に言います】
 先々週「では」という言葉で始まっている箇所がどのくらいあるのか調べてみましたというお話をしましたが、今日の所も「では」という言葉で始まっています。
 ここでも、今までと同じように話題を少し変えようとしているわけですが、本質的なテーマを変えようとするのではなく、ちょっとだけ目先を変えて、興味を引こうとしているように感じます。
 13節を見ると「では、あなたがた異邦人に言います」と言って、話題を異邦人に向けています。
この様に異邦人に向けて語ったり、ユダヤ人に向けて語ったりすると、どちらが大切なのか、というように二者択一的に物事を決めようとしてしまう傾向が、私たちにはあるかも知れません。しかし、当たり前の事かも知れませんが、単純に両方のことを考えてもいいのではないでしょうか。
 パウロはここで異邦人に話題を向けていますが、同時に「同胞」について、つまりユダヤ人の救いについても語ろうとしているのです。ただ、ユダヤ人の救いという事については、素直な形では実現しないという事を、パウロ自身の経験から語ろうとしているのだと思います。
 具体的な言葉として14節に書かれているように「ねたみ」という感情を用いて、ユダヤ人を救いに導こうとしているようなのです。
 パウロ自身は「異邦人のための使徒である」と自認しています。ですから異邦人に対して福音を語り、異邦人の救いのために日々、働いているし、そのことを誇りに思っているというのです。
 でも、それだけで満足しているのではなく、「同胞」であるユダヤ人に向けても、異邦人が救われて、喜びと感謝の生活をおくっていることを見せつけて、さらに「ねたみ」の感情を起こさせて、福音に耳を開くようにさせたいと願っているのです。
 コリントの信徒への手紙第一9章23節で「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」とパウロは語っていますが、ここでも同じような気持ちで語っているのだと思います。

【排除と受け入れ】
 次の15節では「もし彼らの捨てられていることが、世界の和解となるならば」と語り、ユダヤ人の現状というものを理解し、それをハッキリと告白しています。
 それは、本来、神によって選ばれた民であったにも関わらず、神から授けられた律法を、勝手に解釈し、誤解することによって救いから離れてしまったという事です。
 救いから離れてしまっただけではなく、律法を厳守しなければ、神から義と認められない、割礼を受けなければアブラハムの子孫として認められない、などという律法主義を作り出してしまったのです。
 神の救いの業を、人の手によって滅びの業に変えてしまったわけですから、捨てられても仕方がないというのが、パウロの主張なのです。
 そして、ユダヤ人の愚かさを見ることによって、他の民族に救いが与えられるのならば、その方が、はるかに大切な出来事になっていくのではないか、というのです。
 しかし、ユダヤ人が捨てられてしまう、という事だけでは、神の救いの業について、半分しか伝わりません。続く言葉として「彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう」と語っています。
 捨てられてしまうという事だけで終わるのではなく、捨てられたように思われる者に対しても、さらに、その者を受け入れるという、神の大きさを語らなくては、完全な救いの業を語ることにはならないのです。
 神に敵対し、逆らい続けてきたユダヤ人が救われるという事は「死者の中からの命」だと語るのです。つまり、死者が復活するくらいの大きな出来事だというのです。
 それは人間の努力の延長線上に起こる出来事ではなく、不可能を可能にする、神の業、そのものであるとパウロは語るのです。

【接ぎ木】
 16節では麦やオリーブといった植物を用いて話を展開しようとしています。この展開の仕方は、イエスが用いた「譬え話」に似ているような気がします。
 もう一度、読んでみたいと思います。「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」
 麦については、麦の実が聖なるものであれば、それを元にして作った麦粉も聖なるものとみなされると語り、植物全般については、その根が聖なるものであれば、そこから生え出る枝も聖なるものとみなされるというのです。
 実として用いられるものは大切です。しかし、その実は元になる木や草があって、初めて実るわけですから、その木や草を成長させるために栄養を吸収するのは根ですから、さらに大切なものだというのです。
 これも、二者択一的な考え方では十分な理解ができません。根が大切とか、実が大切ではなく、根があって初めて実が実るわけですし、実が実ることによって、その根の働きは認められるわけです。根と実は互いに必要としているという事を忘れてはいけません。
 続けて17節以降では、自然に成長する木とは別に、栽培される木について語っています。ここには突然オリーブの接ぎ木のことが出てきます。私たちにとっては日常的なものではありませんが、パレスチナに生きる人々にとっては、身近なものだったようです。
 オリーブの接ぎ木とは、早く収穫するために必要な作業だったようです。また、古くなって実の付き方が悪くなった枝については、すぐに剪定して、新しい枝を接木することによって収穫量が増えていくそうです。
 ここではオリーブの木や古くなって実が実らなくなった枝がユダヤ人を指し、新しく接ぎ木された枝が異邦人を指していると考えられます。つまり、異邦人は救われているという事で、ユダヤ人に対して誇る必要はないし、思い上がってはいけないというのです。

【神の慈しみと厳しさ】
 21節以降では、少し厳しい言葉が続きます。農業を営む人は、より多くの収穫を得ようとして、古い枝を容赦なく切り取ってしまいます。そして、新しい枝を接ぎ木する訳ですが、接ぎ木された枝も実を実らせなかったとするなら、容赦なく切り取られるというのです。
 収穫だけを考えて、農業を営む人は、そのようにするかもしれません。しかし、神は「慈しみと厳しさ」を持っているというのです。
 ユダヤ人は神に逆らい続けてきたわけで、切り取られてしまいましたが、そのまま放っておかれるという事ではありません。切り取られたとしても、もう一度、信仰に立ち返るならば、神によって接ぎ木されるのです。
 神は切り取ることもお出来になりますが、同じように接ぎ直す力も持っておられるのです。
 24節以降に「野生のオリーブ」と「栽培されたオリーブ」が出てきます。野生のオリーブとはアブラハムの子孫ではない民族、つまり異邦人を指しています。そして、栽培されたオリーブとはアブラハムの子孫としてのイスラエル、ユダヤ人を指しているのです。
 神の約束の中で、アブラハムの子孫ではない異邦人が、その信仰によって、救いの約束に加えられ、救いの約束を得ることができたのです。
 だとするならば、元々アブラハムの子孫として、救いの約束が与えられていたユダヤ人に対しては、信仰を持つことができたならば、もっと容易に救いの約束に入ることができるのです。
 今、この言葉を聞く私たちはどのように感じるでしょうか。私たちは異邦人ですから、信仰によって神の救いの約束に加えられました。これは人間の努力の延長線上に起こる出来事ではなく、不可能を可能にする、神の業であり、神の慈しみなのです。
 この真実に恐れをもって感謝していく者となることができるなら幸いです。

祈 り
讃 美   新生583 イエスにある勝利
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏