前 奏
招 詞   イザヤ書40章13~14節
讃 美   新生  1 聖なる 聖なる 聖なるかな
開会の祈り
讃 美   新生290 主の祈り
主の祈り
讃 美   新生602 まもなくかなたの
聖 書   ローマの信徒への手紙11章25~36節
                            (新共同訳聖書 新約P291)
宣 教   「神の深すぎる知」              宣教者:富田愛世牧師

【異邦人に言います】
 今日は「召天者を覚える日の礼拝」として、先に天に召された信仰の先達を覚えての礼拝となっています。本来ならば、そのために聖書箇所を選んだ方が良かったのかも知れませんが、今回はローマの信徒への手紙を読み続けてきましたので、特別なことはせず、そのまま読み進んでいきたいと思います。
 そうは言っても、今日は「神の深すぎる知」というタイトルを付けました。私たちは愛する者を天に送ると大きな喪失感や悲しさを覚えます。そして、なぜ神は私の愛する者の命をとられたのだろうかと疑問を持つと思うのです。
 そのような私たちの思いに対して、神の知恵は、私たちには計り知れない計画の中で進められているのです。そういう意味で、人が生かされるとか、その命が取られてしまうという事も、神の深すぎる知の領域にあることではないかと思います。
 さて、今日の箇所は新共同訳聖書の小見出しには「イスラエルの再興」とあります。つまり、今は滅びの中にあるイスラエルが再び神の憐れみによって救われるという事が書かれているわけです。
 25節を見ると「兄弟たち」という呼びかけで始まっています。この呼びかけの言葉は異邦人クリスチャンに向けて語られています。パウロはここで新たな主張をしているのです。
 それは「イスラエルの再興」つまり、すべてのユダヤ人が救われるのだという事です。それは神の秘められた計画なのだから、すでに救われている異邦人クリスチャンに向かって「自分を賢い者とうぬぼれないように」と注意を促しているのです。
 そして、今、キリストの救いを受け入れずに、神に敵対しているユダヤ人が存在しているということは「異邦人全体が救いに達するまでだ」と語るのです。
 異邦人の救いが完成したならば、その次にユダヤ人が救われるというのです。パウロがこのような考えを持つ根拠はヘブル語聖書にある預言者の言葉にあります。

【秘められた計画】
 26節の後半から27節にかけて、その預言の言葉が引用されているのですが、ここでもパウロはヘブル語聖書の言葉をそのまま引用するのではなく、自分流にアレンジしています。
 元になるのはイザヤ書59章20~21節ですが、これに同じイザヤ書27章9節が影響していると考えられています。イスラエルの民と神との関係を見ると、いつの時代にも、神に逆らい、滅びの道を歩むけれど、その度に、神の憐れみによって引き戻されています。
 パウロは、そのような関係の中にあって、最終的には、神の選びという根本的な契約によって、すべてのユダヤ人が救いに入れられるのだと主張するのです。
 しかし、このような主張を聞くと「最終的にすべての民が救われるのなら、何をしても構わないのではないか」と言い出す人が必ずいます。神に従順に従っても救われるし、神に逆らい、自分勝手な振る舞いをしたとしても最終的には救われるのなら、わざわざ従順に従う必要はないのではないか。それより、好きなことをした方がいいのではないか。と思う人がいるかもしれません。
 しかし、本当にそうなのでしょうか。人はみんな最終的には死んでしまいます。いつかは死ぬのだから、額に汗して働く必要はないのではないか。欲しいものがあれば、持っている人から奪い取っても構わないのではないか。そのように思うでしょうか。
 そうではないと思います。パウロの主張は「救われる」だからこその生き方があるのではないかという事なのです。そして、そこには神の秘められた計画があるのだという事なのです。
 神の秘められた計画を理解するためには、神の秘められた計画を期待しない生き方について知ることが分かりやすいかもしれません。神の秘められた計画を期待しない生き方とは、現実だけを見て、その先、将来を想像できない、想像しないことなのです。
 つまり、ユダヤ人を例にするならば、今、神に逆らい続け、神を裏切り続けているのだから、将来的にも、神に立ち返るはずがないと、諦めてしまうことです。
 しかし、神の秘められた計画は、そのような知識だけで判断して、ユダヤ人は救われないと考える人に向かって「自分を賢い者とうぬぼれないように」と忠告するのです。

【賜物と招き】
 28節以下では、今まで語ったことを、視点を変えながら、繰り返し訴えています。28節を見るとイスラエルは福音を受け入れないという点において、神の敵だというのです。その通りだと思います。
 ユダヤ人は初期のキリスト教について、ユダヤ教の一派だと考えていました。ですから、自分たちが守ってきた律法や割礼をないがしろにするという点において、クリスチャンたちを迫害していたのです。
 パウロも回心する前はダマスコまで出かけて「その道の者」を縛り上げようとしたと記録されています。しかし、復活の主に出会い、180度変えられました。今のパウロから見るならば、ユダヤ人は神の敵なのです。
 しかし、神の選びというアブラハムとの契約の中では、神に愛されているというのです。ここには「神の賜物と招き」という力が働いているのです。賜物という言葉については、パウロの手紙の中によく出てきます。様々な意味に理解することができますが、ここでは、イスラエルが神によって選ばれているという事が賜物であるというのです。
 ここには人間の努力や精進によって選ばれるのではなく、神の一方的な意思だけが存在するのです。だから賜物なのです。そして、同時にそのことは、神からの招きであると理解することもできるのです。

【神の憐れみ】
 30節には「あなたがたは、かつては神に不従順でした」と書かれています。この「あなたがた」とは異邦人を指しています。つまり、元々は異教徒でもあったという事なのです。異教の神を拝み、異教の神に仕えていたのですから、真の神に対しては、不従順であったという事です。
 その時は、異邦人クリスチャンたちが、神に敵対する者だったという事なのです。しかし、ユダヤ人たちが、神に選ばれた者であるにも関わらず、神に従わず、不従順になってしまったことによって、神の憐れみによって、異邦人に救いの業が与えられたという事なのです。
 少し分かりにくいと思いますが、ここではユダヤ教というものを理解する必要があります。どういうことかというと、ユダヤ教という宗教はキリスト教やイスラム教のような世界宗教ではなく、民族宗教だという事です。
 民族宗教というのは、その民族だけが神に選ばれ、神との関わりを持つことができると理解しています。つまり、ユダヤ教はユダヤ人のものであり、ヘブル語聖書に書かれている神は、異邦人の神ではなく、ユダヤ人の神だとするのです。
 しかし、初期のキリスト教はユダヤ教の一派、ユダヤ教から派生したものだとユダヤ人は考えていたので、異邦人を受け入れたことによって、ユダヤ教徒からの不信を招く結果となったのです。
 この様に異邦人もユダヤ人もどちらも、神に敵対する者だった。しかし、神の憐れみは、敵対する者を救われた、異邦人でも救われたのだから、神に選ばれていたユダヤ人はなおさら救われる必要があるというのです。
 33節以降では、ここに神の秘められた計画、神の知恵が表されているという賛美の言葉をもってパウロは締めくくっているのです。

祈 り
讃 美   新生 84 み神のみわざは
主の晩餐式
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏