前 奏
招 詞   箴言5章1~2節
讃 美   新生  1 聖なる 聖なる 聖なるかな
開会の祈り
讃 美   新生105 くすしき主の光
主の祈り
讃 美   新生134 生命のことばたえにくすし
聖 書   ローマの信徒への手紙12章3~8節
                            (新共同訳聖書 新約P291)
宣 教   「慎み深い信仰」                 宣教者:富田愛世牧師

【献身】
 先週は「子どもの成長を感謝する日」の礼拝をお捧げしましたが、その前の「召天者を覚える日」の礼拝と同様に、特別な個所からのメッセージではなく、ローマの信徒への手紙を続けました。 
 そして12章からは新たな展開として「クリスチャンの生き方」ということがテーマになっているとお話しました。その初めに書かれていたことが「礼拝」と「宣教」ということでしたが、1節にはもう一つ大きなテーマとなるような言葉が出てきます。
 それは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」ということです。教会の中で良く用いられる言葉では「献身」という事です。
 1節から2節にかけて献身的な生き方が語られていて、とても大切なことですが、漠然としているようにも感じられるのではないかと思います。
 また、極端な解釈をして「神のために犠牲を払わなければならない」とか「神のために犠牲を払う」ことがパウロによって勧められているようにも受け止められることがあります。
 確かに神は私たちのために犠牲となってくださいました。具体的に言うならば、そのひとり子を、私たちの罪の贖いとして十字架の死に渡されたわけです。また、もっと身近な事とするならば、神が私たちを愛されているという事実は、犠牲を払いっぱなしの出来事ではないかと思うのです。
 私たちは、誰かを愛したとするならば、その見返りを求めてしまいます。見返りと言うと大げさかもしれませんが、愛した相手に対して、何かしらの応答を求めてしまうのです。しかし、私たちは神の愛に対して、それに相応しい応答をしているでしょうか。愛してくれて当然と思っているのではないでしょうか。
 献身という事において、神は自分を犠牲にして、なんでも我慢して、信仰生活をおくるようにと命じているのではありません。そもそも、禁欲的な生活が信仰生活なのでしょうか。そんなことはありません。

【慎み深く】
 パウロは「私は犠牲を払って、主に従うのだから、あなた方もそうしなさい」と勧めるのではなく「与えられた恵み」によって命じているのです。
 3節をもう一度読んでみます。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」
 「自分を過大に評価することなく」とあります。私たちは自分を犠牲にすることが出来るほど強い信仰を持っているのでしょうか。そもそも、このように考えるという事は、私たちに与えられている信仰を自分の努力か何かで勝ち得たと、どこかで思っているから、そのような発想が浮かんでくるのではないかと思います。
 パウロが言うように、私たちの信仰は、ただ神の憐れみ、恵みによって与えられているのだという事を、事あるごとに思い起こし、確認しなくてはいけないのではないでしょうか。
 そして、ここで語られているのは、それぞれに与えられる「信仰の度合い」に応じてという事なのです。信仰の度合いに応じて、慎み深く評価しなければならないのです。
 この「度合い」という言葉を、ある神学者は「物差し」と訳しています。私たちには、それぞれに物差しが与えられているのです。つまり、私の10センチとあなたの10センチは違っていて構わないという事なのです。
 日本人の中には「みんな同じが良い」という考え方が染みついていて、平均的に、標準的になることが、波風立てずに済む、無難な生き方であるとしています。もちろんその考え方が全て悪いわけではありません。
 しかし、信仰においては、そうであってはいけないのです。ある新興宗教では「あの人が百万円献金したから、あなたにも出来るでしょう」という言い方で献金を強要するそうです。
 しかし、イエスは貧しいやもめのレプタ二枚が貴いと語られるのです。

【神からのギフト】
 それでは私たちには「自分を神に献げること」が出来ないのでしょうか。そうではありません。
 3節の初めに書かれている言葉は「わたしに与えられた恵みによって」とあります。すべてのことは「与えられた恵み」に対する応答という形で話が進められているのです。
 信仰のために何かを我慢したり、犠牲にしたりというのではなく、神によって与えられたものを「お返ししていく」という形で捧げていくのです。その基準も、それぞれに与えられている「物差し」を使った、私の基準で構わないのではないでしょうか。
 それぞれの基準によって、捧げられるわけですから、大きさも、長さも、重さも、すべて違っているから、個性的で素敵なものが作り上げられるのではないかと思うのです。
 4節には「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように」と書かれています。ここで語られる「一つの体」とは教会を意味していると考えられています。
 違う人が集まり、違う価値観を持っているから、教会は豊かな広がりを持つことができるのです。
 同じような人、同じような価値観の人が集まり教会を建てあげたとするなら、画一的な教会になってしまい、その価値観に合わない人が入ってくることができなくなってしまいます。「どなたでもお出で下さい」と看板には掲げてあっても、中に入ると「誰でも」ではなく「私たちと同じような人は」に向けて歓迎しているだけになってしまうのです。
 6節を見るともう一度「わたしたちは、与えられた恵みによって」と語られています。この与えられた恵みが「賜物」なのです。
 この賜物は、すべての人に与えられるものです。しかし、神はそれを無理に押し付けるのではありません。救いという出来事も同じですが、神は備えてくださいますが、私たちがそれに気づかないならば、残念ですが手に入れることはできないのかも知れません。

【存在理由】
 神はその恵みと憐れみによって、私たちに必要な、あらゆるものを備えてくださっています。なぜなら、神によって私たち一人ひとりは必要な存在だからです。誰ひとりとして必要のない存在はありません。神に必要とされているという事が、私たちの存在理由なのです。
 6節の後半からは、様々な「賜物」について書かれていますが、これらが「賜物」という事ではなく、これらは賜物のリストの一部なのです。パウロは他の手紙の中でも、賜物リストを上げています。同じものもあれば、違うものも出てきます。
 教会がキリストの体だと言われる理由は、そのような様々な賜物が寄せ集められて、一つの体を作り上げるからです。
 今、日本バプテスト連盟では機構改革が進められています。その中で今までの総会の在り方を見直し、これからの新しい総会のために、先日、理事、監事、総会役員の選挙が行われ「みんなで選ぶカラフルな選挙」というタイトルがつけられていました。
 内容としては、今までは候補者選考委員会が立てられ、そこで理事等の候補者が挙げられ、投票していましたが、今回は各教会が候補者を推薦するという方式に変わりました。また、今までは教役者の男性が中心に選ばれていましたが、今回はクォーター制という制度が導入され、男性と女性のバランスと教役者と非教役者のバランスが偏らないようにしました。
 それによって、男性教役者中心の理事会から、女性と非教役者の割合が増えた理事会の構成になりました。その他に監事や総会役員も同じように男性教役者中心ではなくなりました。
 イエスは当時の神殿中心で男性優位のユダヤ教の体質を批判しました。そして、罪人と呼ばれる人や数に入れられない女性と子どもを大切にしました。
 今、求められる教会の姿は、そのようなイエスが大切にした人々と共に歩む教会なのではないでしょうか。そして、私たちはそのような人々を受け入れる一人ではなく、そのような人々の一人であるという事を、慎み深く受け入れなければならないのです。

祈 り
讃 美   新生367 神によりて
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏