前 奏
招 詞   ルカによる福音書2章29~32節
讃 美   新生 87 たたえまつれ 神のみ名を
開会の祈り
讃 美   新生176 主は豊かであったのに
主の祈り
讃 美   新生153 エッサイの根より生い出たる
聖 書   イザヤ書9章1~6節
                      (新共同訳聖書 旧約P1073)
宣 教   「暗闇の中を歩む民は・・・」            宣教者:富田愛世牧師

【メシア預言】
 先週からアドベントが始まりました。ずっとローマの信徒への手紙を読み続けてきましたが、さすがにアドベントに入り、クリスマスの時を迎えるにあたっては、それに相応しい聖書箇所にしたいと思いました。
 今週はアドベントの第二主日としてメシア預言が語られている、イザヤ書6章1~6節をご一緒に読みたいと思いました。この箇所は、待降節に読まれることの多いテキストで、クリスマスらしい聖句の一つとして受け止められていると思います。
 しかし、この聖句が語られている背景を見るならば、クリスマスとは程遠い感じがしてきます。1節から6節までをもう一度読んでみたいと思います。
 メシア預言が語られてきた背景には、イスラエルが国家存亡の危機に直面しているという状況が多いようです。
 今日の箇所の背景としては、アッシリアという大国の脅威の前に、ユダの兄弟国であった北イスラエルがシリアと同盟を結び、アッシリアの脅威に対抗しようとした事に始まります。北イスラエル・シリア同盟は南ユダにも同盟に加わるように、圧力をかけてきました。ほとんど脅迫と言ってもよいような仕方で圧力をかけてきたので、当時の南ユダの王であるアハズは悩みましたが、その結果、敵の敵は味方的な考え方で、アッシリアに助けを求めたのです。
 このような背景の中でイザヤはアハズに対して人の力に頼るのではなく、唯一の真の神に頼らなければならないと告げるのですが、アハズは目の前に迫ってくる脅威しか見ることができず、イザヤの預言を無視してしまうのです。
【闇の中を歩む民】
 1節から見ていくと、ここには「闇の中を歩む民」や「死の陰の地」に住む民が光を見ると書かれています。この闇という表現はイスラエルの民にとっては、まったく光の入らない世界を意味しているそうです。
 私たち、特に現代に生きる日本人にとっては、光のまったくない闇というものは、想像しにくい世界だと思います。しかし、当時の人々にとっては、新月で雲に覆われたりすると、本当にまったく光のない闇夜というものが存在したようです。
 そのような恐怖を経験しながら、ここで語られる闇というのは、この世のものではなく、あの世、陰府の世界を意味しているのです。
 しかし、そこに光が差してくるというのですから、それは人知をはるかに超えた、神の成せる業でしかないのです。そのように恐怖と不安に囚われた民に希望の光が与えられるというのですから、民の喜びというものは、どれほど大きなものだったのでしょうか。
 さらに預言は、兵士の靴や血にまみれた軍服は焼き尽くされると続きます。戦いや争いの終わりを告げているのです。そして、新しい王、支配者が与えられるというのです。
 その王について、預言者は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれると告げるのです。そして、このなかで中心的なテーマとされるのが「平和」ということなのです。
【キリストの平和】
 平和という言葉を私たちはよく耳にしますし、平和が嫌いだという人は、この中には一人もいないと思います。しかし、この平和とはいったいどのようなものなのでしょうか。もちろん形などありませんから、概念としてとても難しいものだと思います。
 ヘブル語では皆さんよくご存知のシャロームという言葉です。これは平和とも、平安とも訳されています。同じように訳されていますが、一般的には平安というのは、人の内面に表れるものを意味します。そして平和というのは、内面を含めて、さらに外へと広がりを持っている概念なのです。
 現代の日本社会では、平和という概念があまり発達していません。平和とは何かと尋ねるなら、多くは戦争のない状態だという程度の答えしか返ってきません。しかし、平和という概念はもっと大きな、広がりを持ったものなのです。
 カトリックの神父さんで江礼宮夫という名前でブログを書いている人がいるのですが、その人が平和についてこんな文章を載せていたので紹介したいと思います。

―世の平和とは(弱者にしわ寄せ)―
 これは、先ず『平和』の意味する本当の内容を考えねばならないと思います。「平和」は、平安・平穏・争いのない状態。家庭内・仲間・共同体・地域・職場・民族など、それぞれのグループの中に葛藤がないこと。わたし達のいういわゆる「世の平和」です。
 そのためには、勝手なことを言わないで、我慢し協調して秩序を維持して行くことが重視されます。小異を捨てて大同につく。和を以て尊しとなす、などの協調精神です。特に弱者と少数者は大多数の為に、我慢することが要求されます。少数者より「最大多数の最大幸福」は、民主主義を掲げる政治家のモットーです。
 従って、自分では良いこと、是非やらねばならぬことと思っても、グループ全体の意向に逆らうことは、そのグループの平和、秩序を乱すこととして自制しなければならない。お国のためには、教会の平和のためにはということで、我慢するのが生活の智恵とされ、道徳化されています。
 しかし、聖書の中での『平和』シャロームの意味は違うようです。その契約の民イスラエル中に、傷ついた部分のないこと。正義が行われていること。これが神のシャロームです。旧約では「正義が造り出すものは平和」であり、やもめ・孤児・寄留民などにたいする神の配慮が度々言及されています。虐げられる者がいるかぎり、平和な状態ではない。不正が行われ、虐げられる者がいる限り、イスラエルの神は、裁きをくだしたのが旧約の歴史でもあります。
―キリストの平和―
 しかも、イエスは、自分のグループ内だけの平和だけではなく、グループを超えて、即ちよそのグループにもシャロームの状態にあることを望まれた。これが『キリストの平和』です。家庭や教会の中だけが平穏であっても、それはいつわりの「平和」であって「キリストの平和」ではありせん。
 自分の家庭以外のよその家庭・共同体、広くは全世界の人々が全て抑圧されていない状態にあること。正義が貫徹していること。これが「キリストの平和」の意味です。従って、弱者は無視されて、強国の支配や武力により国々のバランスにより保たれている「アメリカの平和」「国連の平和」などとは大分違います。
「キリストの平和」これは福音の世界、神の御国とおなじ意味です。

 もう少し続くのですが、今はこれくらいにしておきたいと思います。これらの言葉はかなり厳しい言葉です。しかし、これこそまさしくインマヌエルの信仰に立った言葉なのです。
【とこしえの平和】
 イザヤは紀元前8世紀、今から2700年以上前にこの預言を語り、700年後にイエス・キリストの誕生によって現実となりました。そして、今、それから2000年たち、キリストの平和は、なかなか実現していません。しかし、預言の言葉が実現していないからと言って、この言葉を現実に即して解釈してよいのでしょうか。
 キリスト者の信仰というのは、見えるものや実現できそうなことを信じることだけではありません。見えないものや実現不可能に思えることでも、それに向かって希望を持って信じ続けることなのです。
 アメリカの公民権運動で有名なキング牧師は当時の社会の中で、多くのキリスト教会が、それも福音的と呼ばれる教会が奴隷制を支持したり、支持しないまでも、公民権運動に対しては批判的な態度をとっていたことに対して「正義とは愛に反するものを矯正する愛である」と語りました。
 多くの教会は神の愛を語っているのです。しかし、正義なき愛は、実体の伴わない虚構でしかないのです。言葉として、概念として愛を語っても、それは愛ではありません。愛でないばかりか、逆に人を傷つける言葉になってしまうのです。
 現代社会に生きる私たちの周りには、どんな現実があるのでしょうか。貧困や弱者に対する切り捨て、格差社会、派遣切り、高齢者、障害者に対する切り捨て、あげていくときりがありません。それにどんどん憂鬱な気分になってしまいます。
 まさしく今日のテキストにあるように「闇の中を歩む民」なのです。しかし、私たちは気落ちしてはいけないのです。必ず光が与えられるのです。その光は、私たちの主キリスト・イエスです。このイエスがここに来られたら、何をされるでしょうか。イエスならどうするか?私たちに対する聖書の問いかけなのです。

祈 り
讃 美   新生149 来たれやインマヌエル
主の晩餐
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏