前 奏
招 詞   ミカ書5章1節
讃 美   新生 87 たたえまつれ 神のみ名を
開会の祈り
讃 美   新生180 イエスがこころに
主の祈り
讃 美   新生194 まぶねの傍に
聖 書   マタイによる福音書1章1~17節
                  (新共同訳聖書 新約P1)
宣 教   「ルーツ」              宣教者:富田愛世牧師
【ルーツ】
 今日からアドベントの第三週に入ります。例年だとアドベントの第四週をクリスマス礼拝にしてきましたが、今年は12月25日が日曜日なので、暦通りにアドベントの期間を四週間過ごしてから、クリスマス礼拝を迎えることができます。
 ちなみにクリスマスイヴとはクリスマス前夜と訳されることが多いのですが、本来の意味はクリスマスの夜という事だそうです。イエスが生まれた当時のイスラエルでは日没から一日が始まるわけですから、12月25日がクリスマスだとするならば、現代の24日の日没からがクリスマスですから、24日の夜に行われる礼拝がクリスマスイヴ礼拝という事になります。
 今日はマタイによる福音書1章1節から読んでいただきましたが、多くの人が聖書に興味を持って読んでみようと試みるけれど、この最初の数節で、つまらなくなって読まなくなってしまうと言われる個所です。聖書を読もうとする人にとっての「つまずきの石」かも知れません。
 私も聖書を読んでみたいという人に対して助言をする時は「マタイによる福音書からは読まない方がいいよ」などと言ってしまうことがあります。実際にここでつまずくかどうかは分かりませんが、とっつきにくい箇所だという事は否めないと思います。
 しかし、ここにはとても大切なイエスのルーツというものが書かれています。今日のタイトルは「ルーツ」としましたが、40年位前にアレックス・ヘイリーという作家が「ルーツ」という作品を発表しました。覚えている方も多いと思います。
 その小説を元にして、テレビドラマが作られ、アメリカで大ヒットし、日本でも放映されました。アフリカ系アメリカ人の主人公が自分の出生を遡り、アフリカまで行くという内容でしたが、人にはそれぞれのルーツがあり、それらを知ることによって、その人の隠れた面、無意識下の一面を知ることができるのかもしれません。
【隠したいルーツ①】
 イエスのルーツにも、色々な時代背景や人物の物語が隠されています。その中には、あまり触れられたくないような事実もあると思うのです。ただし、あまり触れられたくないというのはイエスの思いではなく、後のキリスト教という宗教の指導者たちだろうと思います。
 聖書は、その辺りの事実を、その書かれた時代背景の中で巧みに表現を変えたり、隠喩を使ったりしながら記録していったのではないかと思います。
 一つ目のできれば隠したかった事実とは5節にある「ルツ」という名前です。ヘブル語聖書のルツ記に登場する、異邦人の女性です。
 イエスが誕生した時は、まだキリスト教はありませんでした。そして、イエスはユダヤ教徒の家庭に生まれ、ユダヤ教徒として育ったはずです。という事は、純粋なユダヤ人であるという事が、とても大切な事だったはずです。
 自分のルーツの中に異邦人の血が混じっているという事は、純粋なユダヤ人ではないという事で、恥ずべき事、隠しておきたい事実だったはずです。
 しかし、マタイによる福音書はイエスの系図の中に、この事実を記録しているのです。なぜなのでしょうか。正確な理由は著者にしか分からないと思いますが、様々な理由が想像できます。
 そして、一番大切なことは、イエスが全人類のための救い主、メシアであるという事なのではないでしょうか。
 ユダヤ教という民族宗教の枠を越え、神の計画の中に生きる救い主として、イエスの系図には異邦人の血が必要だったのではないでしょうか。人間の常識では不必要な事実かも知れませんが、神の計画の中には不必要なものなど、一つもないという事を証ししているのです。
【隠したいルーツ②】
 もう一つは6節です。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。サムエル記下11章に、イスラエルがアンモンやアラムと戦っていた時のことが記録されています。
 その戦いの最中、エルサレムに留まっていたダビデ王は王宮の屋上から、一人の美しい女を見ました。その女の名はバト・シェバと言いイスラエル軍の兵士であるウリヤの妻でした。それを知ったうえで自分の元へと召し入れたのです。
 その後、バト・シェバは子を宿し、それを知ったダビデは、ウリヤを戦いの最前線に送り、敵の手によってウリヤを殺してしまいました。
 ダビデ王は自分の権力を利用して部下であるウリヤの妻を奪いました。ダビデ王は詩編の作者としても有名で、数多くの素晴らしい詩を残していると考えられています。しかし、その背景には、神からのたくさんの恵みを受けながら、その神に対する裏切り行為を重ねていたという事実もあるのです。
 ダビデ自身、平気でいたわけではないと思います。多くの悩みや葛藤を抱えていたと想像します。その中で神の偉大さや神への感謝を詩という形で語り、それだけではなく自分の不甲斐なさや後悔、反省の言葉を綴っていったのではないかと思います。
 このようにイエスのルーツを見る時、それは必ずしも私たちが考えるような意味での純粋さや清さだけではありません。不純なことや汚い側面も、当然の事として持っているのです。イエスだけでなく、聖書に登場する「英雄」的な面を持っている信仰者たちも同じだと思います。
 聖書は歴史書ではありませんから、正確な歴史を伝えているわけではありません。しかし、ウソ、偽りのない正しい歴史は私たちに事実を伝えます。そして、私たちはその事実を色眼鏡をかけずに見ていかなければならないのです。
 聖書だから、こう語るはずだという色眼鏡を捨て、そこに書かれている事実を、その時代背景や文化的背景に照らし合わせて、検証していかなければならないのです。
【イエスの誕生】
 クリスマスという時を私たちが迎え、過ごす時、そこには喜びや楽しさといった、明るい側面が強調されるかもしれません。
 しかし、クリスマスの出来事は、明るい側面だけを持っているのではありません。暗く、悲しく、苦しい、そんな側面も持っているのです。
 そして、それが現実なのです。歴史の中で、私たちはその現実を見てきたし、その現実を生きているのです。神はその歴史を作ることもできますが、人に与えられた自由意思を尊重し、人が作る歴史の中に働かれるのです。
 喜びの歴史、痛みや悲しみの歴史、それらをひっくるめて私たち一人ひとりの歴史があるのです。神はそのような様々な歴史、カラフルな歴史を持つ、私たち一人ひとりと関わりを持ちたいと願っておられるのです。そして、神がその一人ひとりの歴史の事実を客観的に見るのではなく、具体的に介入されたという事、それがクリスマスの出来事なのです。
 イエスが誕生する前、マリアとヨセフ、それぞれの所に天使が遣わされました。今日の教会学校の聖書箇所がルカによる福音書1章26節以下で、そこでも語られると思いますが、聖書において天使が登場する場面には、当事者の悩みや苦しみがあります。天使の語る言葉は、その悩みや苦しみから神が解放してくださるというものです。ここで天使が語ったことは「主が共におられる」「インマヌエル」という励ましの言葉だったのです。
 イエスの誕生によって、神は私たちと共におられると約束されたのです。それは、すべてが都合よく、思い通りに行くという事ではありません。神が私たちに代わって、問題を解決してくれるという事でもありません。ただ、私が喜ぶ時、共に喜び、私が泣く時、共に泣いてくださるという事なのです。

祈 り
讃 美   新生147 ハレルヤ イエス君
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏