前 奏
招 詞   イザヤ書7章14節
讃 美   新生 87 たたえまつれ 神のみ名を
開会の祈り
讃 美   新生146 み栄とみ座を去り
主の祈り
讃 美   新生156 いざ来たりませ
聖 書   マタイによる福音書1章18~23節
                   (新共同訳聖書 新約P1)
宣 教   「ともなる神」          宣教者:富田愛世牧師

【ヨセフとマリアの結婚】
 クリスマスの出来事のなかで、不可欠な人物と言えば、主人公のイエスですが、その両親であるマリアとヨセフも忘れては困ります。この二人がいなければイエスの誕生はなかったと思いますが、よく聖書を読んでみると、必ずしもマリアとヨセフがいなくても大丈夫だったのではないか、とも思わされます。
 マリアのお腹に赤ん坊としてのイエスが宿った場面をみると、それは、聖霊によって身ごもっているのです。生物学的には、あり得ないことが起こっているわけですから、いっそのこと母親から誕生しなくても良かったのではないかと思います。
 孫悟空のように、どこかの岩から生まれてもいいし、お釈迦様のように、母親の脇の下から生まれても構わなかったはずです。
 しかし、聖書はマリアとヨセフを描いています。そして、この二人の子としてイエスが誕生したと語っています。神の子であるけれども、完全な人間としてこの世に誕生されたということが大切だったのです。
 当時のユダヤ社会での結婚という制度は、ほとんどの場合、小さな子どものうちに親同士が決めていたようです。日本の結婚観も、今は変わりつつありますが、家同士の結婚で、親が決めていたという時期が、過去において長く続いていたので、似たようなところがあったようです。
 そして、ユダヤでは適齢期になると本人同士の気持ちを確認したうえで、1年間の婚約の期間を持ち、その後、正式な結婚になりました。この婚約の期間、二人は夫婦同様に扱われ、当人たちもそのように考えていたようです。
 当時の結婚の適齢期というのは、男の場合18歳、女の場合は12~13歳だったようです。夫が18歳、妻が12~13歳で社会的な責任を持ち、家庭を築いていったということを考えると、現代人は昔の人に比べると幼いのかなとも思いますが、平均寿命も今の半分くらいしかない時代ですから、ちょうど良かったのだろうと思います。
 ヨセフとマリアの結婚についても、お互いに同意し、これから楽しい婚約期間を経て、結婚へと向かおうとしていました。クリスマスの出来事は、そんな二人のバラ色の人生のスタートをめちゃくちゃにしてしまうことになりました。
【マリアの孤独】
 新約聖書の中でイエスの誕生の場面はマタイ福音書とルカ福音書しか扱っていません。なぜなのかは分かりません。そして、それぞれに伝える対象が違っていたので、書かれていることが一致していません。
 このマタイ福音書ではヨセフに焦点が当てられていて、マリアの言葉は一言も出てきません。ルカ福音書では反対に、マリアに焦点が当てられているようで、受胎告知の場面が語られ、マリアの賛歌と呼ばれる有名な賛美が載せられています。マリアの言葉はたくさんでてきますが、ヨセフは一言もしゃべっていません。
 これにはマタイとルカそれぞれの福音書記者の意図があります。マタイ福音書の著者はユダヤ人を対象にこれを書いています。ですから1章には、だらだらと舌を噛みそうになる、カタカナの名前が羅列されていて、今の私たちには何の意味も無いように思われます。しかし、ユダヤ人にとってはこの系図がとても大きな意味をなしていたのです。
 それは、ヘブル語聖書の預言どおり、ダビデの子孫として救い主が生まれることを証明しているのです。そして、ヨセフの言葉しか出てこないのも、家父長制という、男中心の社会のなかで意味をもたせるために、そうされているのです。
 さて、マリアは聖霊によって身ごもったことを知り、大きな恐れを抱いたはずです。第一に、神のみわざが自分のうえに起こることなど信じられなかったと思います。皆さんの中に、このマリアと同じ経験をして、すぐに喜ぶことの出来る人がいるでしょうか。
 たぶん誰もすぐには喜べないのではないでしょうか。そして、夫との関係がないのに、身ごもったということが公になったとしたら、当時のユダヤの律法によれば、姦淫の罪で石打ちの刑に処せられるのです。
 マリアは不安と恐れにかられ、悩んだと思います。そして、それを婚約者であるヨセフに打ち明けます。事実を知ったヨセフはどうしたでしょう。ヨセフは正しい人だったので「ひそかに縁を切ろうと決心」したのです。マリアと相談したり、二人で悩んだりしたとは書かれていません。
 この衝撃的な事実を知らされた後、ヨセフはマリアと語ろうとしなかった、あるいは語ることが出来なかったのではないかと想像します。マリアは聖霊によって救い主の母となる喜びもあったでしょうが、最愛の隣人であるヨセフとの関係において孤独を感じていたのです。
【ヨセフの孤独】
 一方のヨセフは正しい人だったので、どのようにこの件を処理しようかと思い悩んでいました。ここで「正しい人」と言うことが、私たちに大きな問いを投げかけています。ヨセフは2つの正しさの間で思い悩んでいました。一つは律法的な正しさであり、もう一つはマリアを愛しているという愛情をつらぬく正しさです。
 律法的な正しさによれば、マリアの妊娠の原因を追求し、その理由によっては石打ちの刑にしなければなりませんでした。厳格に律法を守るのならば、その信仰的正しさをつらぬこうとするならば、こちらを決断しなければなりません。
 しかし、もう一つの正しさ、つまり、愛する者を守るということをつらぬくならば、その現実に目をつぶって、何もなかったかのように、マリアを妻として迎える決断をすれば良かったのです。しかし、その自信がヨセフにはなかったのかも知れません。ヨセフは妥協案として「ひそかに縁を切る」決心をしました。
 ある牧師先生がこの箇所についてこんな事を書いています。
「何よりも気になったのは、19節の文章のはぎれの悪さである。ヨセフは『律法に忠実であろうとする人』なのか『親切な人』なのか 『律法を愛の命令の意味で解釈した義人』なのか 『問題を先送りにし、その場逃れをしようとしている卑怯者』なのか、 はたまた『神を畏れる信仰者』なのか。どのようにでもとれるテキストには、ヨセフ自身が持っていたであろう気持ちの揺れと、父ヨセフの物語を叙述するマタイの思惑が分かちがたく絡み合って混在する。」(アレテイアNo35)
このように書いています。
 私はここに、私たち人間の正しさの限界があるのではないかと思います。私たちが正しさを主張するとき、どこかに正しくないものを仮定しなければなりません。そうしなければ、自分の正しさを主張し、証明することはできないのです。
 信仰においてもまったく同じです。私たちが「信仰的にこうすることが正しい」と主張する時、そうしないことは正しくないと判断しているのです。本当に神の目から見て、それが正しいのかどうかは誰にも分からない、にもかかわらずです。
 「ヨセフ自身が持っていたであろう気持ちの揺れと、父ヨセフの物語を叙述するマタイの思惑が分かちがたく絡み合って混在する。」
白黒はっきりさせようとする愚かな人間の正しさが、ヨセフを孤独へ追いやっているのです。一番、身近な隣人としてマリアがいるにもかかわらず、相談もせずに、自分の正しさだけで物事を判断しようとしてしまったのです。
【いっしょだよ】
 マリアとヨセフの婚約期間は、実に波瀾に富んだものとなりました。本来ならばハネムーン期間として、二人で楽しく過ごしているはずでした。しかし、ヨセフの持っていた愚かな正しさによって、二人で一緒にいるはずなのに、お互いに孤独でした。
 人は一人では生きていけないので、寄り添う相手を求めます。そんな相手が見つかると喜んで寄り添います。しかし、ある時二人のあいだに溝があることに気付くのです。埋めようと努力する人もいます。溝を見ないようにする人もいます。割り切って生きようとする人もいます。どれも正しい方法で、大切な事であり、必要なことです。しかし、解決にはなりません。
 ヨセフの心の葛藤を解決したのは、主の天使の言葉でした。20~21節「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」
 カール・バルトという有名な神学者はこう語っています。
「神はイエス・キリストにおいて永遠に罪人と共にあることを決意された」
 クリスチャンは罪人と共にいようとはしません。自分が正しいと認めることのできる人と一緒にいます。自分が正しいと認められない人とは距離をおくのです。そして、自分の正しさを教え、それに従えば受け入れます。このようにして孤独な人を作ったり、自分が孤独になったりしてしまいます。
 しかし、神は罪人と共にあることを決意されたのです。この言葉はクリスチャンにとって、革命的な言葉です。また多くの宗教家にとっても革命です。
 私たちが正しい人であるかぎり、神と共にあることはできないのです。私の正しさを主張しているかぎり、神と共にあることはできないのです。しかし、心の底から自分自身の罪を認め、神の前に、また、人の前に、自分が正しくないとするなら、そんなあなたと共にいてくださいます。

祈 り
讃 美   新生148 久しく待ちにし
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏