前 奏
招 詞   レビ記19章17~18節
讃 美   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
讃 美   新生 70 すべしらす神よ
主の祈り
讃 美   新生445 心静め語れ主と
聖 書   ローマの信徒への手紙13章8~10節
                 (新共同訳聖書 新約P293)
宣 教   「自分のように」         宣教者:富田愛世牧師

【自己愛】
 新共同訳聖書では「隣人愛」という小見出しが付いています。1節からの流れで見ていくと突然テーマが変わっているように感じるかもしれませんが、もう少し前にさかのぼって12章9節からの「愛には偽りがあってはなりません」そして「兄弟愛を持って互いに愛し」という流れからすれば、違和感のないものではないかと思います。
 そこでは教会という信仰共同体における関係として、兄弟愛を持って互いに愛し合う事の大切さが語られてきました。それが、この8節からはさらに広がりをもって兄弟愛だけに留まらず、隣り人に目を向け、隣り人も愛すべき対象となるのだという勧めに発展しているのです。
 隣り人に目を向けるという事は、現代のクリスチャンにとっては当然の事と思えるかもしれません。しかし、パウロの時代、ユダヤ教の影響が強い状況の中では、同胞であるユダヤ人に向けて「愛しなさい」という事は、難しいことではなかったと思いますが、隣り人と語られる時、そこにはユダヤ人だけではなく異邦人も含まれると考えるならば、これはかなり難しい勧めだったのではないでしょうか。
 パウロは、その手紙の中でヘブル語聖書の言葉をよく引用しています。ここでも9節以下にヘブル語聖書の引用がありますが、ここはレビ記19章18節が引用されています。そこには「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」と書かれています。
 12章19節の「復讐するな」という事も含まれていますが、ここには自分を愛するように隣人を愛しなさいという今日のテーマが書かれています。隣人愛の前提は「自分を愛するように」という言葉です。
 自分を愛するという根本的なことを理解しなければなりません。私たちが聖書を読む時「何かをしなければならない」という勧めのように受け止めることが多いと思います。もちろん、そのような勧めもありますが、同時に神からの私たちに対するメッセージも含まれているという事を忘れてはいけません。
 教会では「自己愛」は一段低いように受け取られることが多いかもしれません。しかし、神に創造された自分を大切にしないという事は神の創造の業をないがしろにすることなのです。
【借り】
 それでは、もう一度、8節に戻って見てみると、そこには「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」とあります。私はここを読む時「借り」という言葉に違和感を持ちました。何となく受け止めにくい言葉だなと思いました。
 一般的に「借り」という言葉には「借金」のようなイメージがあると思います。辞書を見ると、そのように説明されていますが、もう一つの意味が書かれていて、そこには「相手から受けて,報いなければならないと感ずる利益・恩恵。負い目。または,恨み。」と書かれていました。
 つまり、相手から受けた「借り」は、さっさと返さなければ対等な立場に立つことが出来ない。借りを返さないうちは、いつまでも引け目を、負い目を感じてしまう。そのようなものだと思います。
 ですから、愛するという事について「借り」という言葉は相応しくないように感じていました。しかし、よく読んでみると「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」と言ことですから、「互いに愛し合う」ことについては「借り」として返さなくてもよいという事なのです。
 そして、愛するという事の概念には、見返りを求めないという事が含まれるわけです。そうするならば「借り」と感じる必要はないし「借りを返せ」という要求もする必要がなくなるのです。
 さらに、ここで使われている「借り」と訳されている言葉は、7節にある「義務」と訳されている言葉と同じ言葉が使われています。つまり、愛することは義務でもあるのです。
 ただ「義務」と言われると強いられているような感じがしますが、5節で上に立つ権威者に対して、罰を受けないようにという恐怖心から従うのではなく、良心によって従うべきだと語られていたように、義務として隣人を愛する時の動機は、強いられたものではなく良心からのものでなければ意味がないと思います。
【戒め】
 9節を見ると、先ほど触れたようにヘブル語聖書に書かれている十戒の一部が引用されています。十戒にはご存じのように十の戒めが書かれています。
 出エジプト記20章を見ると「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」という言葉で始まり、「わたしのほかに神があってはならない」「いかなる像を作ってはならない」「主の名をみだりに唱えてはならない」「安息日を覚えよ」という四つの戒めにおいて、神との関係について書かれています。
 そして、後半の六つは「父と母を敬え」「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽証するな」「むさぼるな」という対人関係に関わる戒めとなっています。
 9節に書かれている言葉は、この後半にある、対人関係に関わる戒めの中の四つになっています。
 互いに愛し合いなさいと勧められ、「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と書かれているように、お互いに愛し合って、相手のことを自分と同じように大切な存在であると認めていくならば、戒めとして命じられなくても、姦淫することが出来なくなるというのです。
 ヘブル語聖書の中で姦淫という言葉が使われる場合は、イスラエルが他の神に仕えることを意味する場合が多いのですが、一般的に不道徳な男女関係と捉えても構わないと思います。また、男性の場合は征服欲を満たすための性交を意味することもあります。いずれにしても相手を見下した関係性の中での行為なので、本当の愛があれば姦淫できなくなるという事です。
 殺すことも同じです。相手の命を大切に思うなら、殺すことが出来なくなるはずです。盗むことについても、自分の物欲を満たすことだけを考え、それが相手にとってどれだけ大切なものかを想像できなくなる時、盗むという行為に及ぶわけですから、相手が大切にしているものを、同じように大切にするなら、盗むことが出来なくなるはずです。
 むさぼるという事は、不正な手段によって何かを得ることであったり、自分の持っているもので満足することなく、相手のものを欲するという強欲であったりします。これも相手を大切に思うならば出来なくなるのです。
【隣人とは】
 そして、これらのことは「そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい。』という言葉によって要約されます。」と言われ、10節では「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」と書かれているのです。
 最初に語ったように、この時代のユダヤ人にとって、関係性を築く相手は同胞であるユダヤ人だけでした。民族共同体としてのアイデンティティを守り、それを繋いでいくという事が至上命令として、全体を貫いていたのです。
 しかし、現代の私たちにとっても似たような価値観があるのではないでしょうか。隣人とは誰を指しているのかと問われる時、「だれ誰です」と決めつけることは難しいかもしれません。
 ある時には家族だと感じることもあるでしょうし、同じ共同体、コミュニティの人々だと感じることもあるでしょう。その時や状況、また、関係性の中で隣人と感じる対象が変わっていくことがあると思うのです。
 そんな時に私たちが参考にするべきものは、福音書に書かれているイエスの行動なのではないでしょうか。
 イエスにとっての隣人とは誰だったのか。マタイによる福音書9章9節以下では収税所に座っていた徴税人のマタイを弟子にしました。その前後では病気の人や悪霊に取りつかれた人を癒しています。その他にもユダヤ人以外の人を癒したり、罪人やユダヤ人共同体から排除された人、また、反対に律法学者たちと食事を共にしている場面もあります。
 私たちも身近な人を隣人と呼ぶこともあるでしょうし、恨みに思う人が隣人となることもあるのです。さらに、聖書に書かれているから隣人を愛したいと思うのです。けれども愛せない時や愛せない人がいるのです。そのように、愛せない自分に気付いた時、イエスが共にいて悩んでくださるのです。

祈 り
讃 美   新生455 われに来よと主はいま
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏