前 奏
招 詞   ヨブ記24章14節
讃 美   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
讃 美   新生 16 み栄あれ愛の神
主の祈り
讃 美   新生519 信仰こそ旅路を
聖 書   ローマの信徒への手紙13章11~14節
                    (新共同訳聖書 新約P293)
宣 教   「キリストをまとう時」           宣教者:富田愛世牧師

【終末】
 以前9章に入る時にローマの信徒への手紙全体の構成について簡単に説明しました。その時に12章から15章までが第三部として「キリストの者たちへの生活訓」となっていますと言いました。そして、12章では、クリスチャンとしての生活は礼拝から始まり、慎み深い信仰によって教会という共同体の一人ひとりに対して、愛に根差した態度で接することの大切さが語られてきました。
 今日の箇所には「救いは近づいている」という小見出しが付いています。小見出しだけを見ると「どういう意味?」と首をかしげたくなるのではないかと思います。パウロは10章9節で「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」と語っていますから、救いは近づいているのではなく、信じることによって救われているはずなのです。
 ここに信仰の難しさがあります。それは救われているという事は信仰において、信じることで成り立つのですが、それは心の中の出来事であって、実体は見えないわけです。救いの実体が何なのかと言われると、これも説明できないものだと思います。
 しかし、当時の人々にとっては、救いの実体のようなものが明確にあったのです。それは、キリストの再臨という事でした。パウロはコリントの信徒への手紙一15章20節以下で「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。」と語っています。
 つまり、イエスの再臨によって救いが完成すると考えていたのです。そして、その時が世の終わり、つまり終末だというのです。一般的に「終末」という言葉には、怖いイメージがあると思います。しかし、初期のクリスチャンたちにとって「終末」とは救いが完成する希望の時だったのです。
【今】
 11節を見ると「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と書かれています。前にもお話したと思いますが、当時の状況を見るならば、ユダヤはローマ帝国の属州として、ローマ帝国の支配のもとに成り立っていました。人々はローマ帝国への税金、エルサレムへの神殿税、そして、領主であるヘロデへの上納金という三重の重荷を負わされていました。
 そのような苦しい状況から一刻も早く解放されたい、救われたいと願っていたわけです。それが「今」の状況だったのです。
 さらに、この「今」にはもう一つの意味が含まれています。それは、先ほど読んだコリントの信徒への手紙一15章に書かれている「終末」なのです。
 当時のクリスチャンたちは、キリストの再臨、週末の時は、もうすぐそこまで迫ってきているのだ。それはいつ起こってもおかしくない。だから、そのための準備を怠ってはならないと思っていたのです。
 11節の続きを読むと「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と語られています。ボーっとしていてはいけない、眠っていてはいけないという事です。
 そして、眠っている時とは夜を意味しています。当時のユダヤ社会においては、夜というのは、私たちを罪に誘う闇の力が支配する時というように捉えられていました。ですから、罪の支配から抜け出し、神の支配の中に入らなければならない。闇ではなく、光の内を歩み、神の救いの時を歩まなければならないのだと勧めているのです。
 なぜなら、次に書かれているように「今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」という事なのです。少なくとも、パウロが信仰に入ったのは、イエスが十字架で殺され、復活した後でした。復活のイエスに、ダマスコ途上で出会い、パウロは救われたわけです。それから何年位、経っていたのか分かりませんが、この手紙が書かれたのは57年ごろだと考えられていますから、20年近く経っていたかも知れません。
【闇の行い】
 次に12節を見ると「夜は更け、日は近づいた」と書かれています。夜が更けるというと、ますます闇の力の支配力が増すのではないかと思ってしまいます。しかし、ここではもっと積極的な捉え方をしています。
 夜が更けるという事は、闇の支配力が強くなっていくかもしれませんが、その力には、終わりがあるという事なのです。夜が更けるという事は、夜明けが近づいているという事なのです。朝が近づいているという事なのです。
 そして、この夜明けとは、闇の支配から、光の支配へと変わっていくという事を意味しているのです。「だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」という事に繋がるのです。
 「闇の行い」とはどういうことなのでしょうか。13節を見ると「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」と書かれています。パウロは、その手紙の中で度々、このようなリストを書いています。
 ガラテヤの信徒への手紙5章19節以降には「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」とあり、このようなことを行う者は神の国を受け継ぐことが出来ないと語っているのです。
 他にもコリントの信徒への手紙一6章9節以下やコリントの信徒への手紙二12章20節以下にも同じようなリストが載せられています。
 このような「闇の行い」へと私たちを誘う罪の支配から抜け出し、光の中を歩むことについて13節にあるように「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」と勧められているのです。

祈 り
讃 美   新生543 千歳の岩よ
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏 











【キリストをまとう】
 夜明けが近づいた時に、すべきことは、先ほど読んだように、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けることなのです。この「光の武具」という事についても、パウロはリストを挙げています。

それは、エフェソの信徒への手紙6章14節にあります。そこには「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」と書かれています。

ここでも「絶えず目を覚まして」という言葉が語られていますが、これも闇の支配に負けることのないように、準備をしておくことの大切さが語られているのです。

こことは直接的な関係はありませんが、準備をするという事は油断しないという事です。この日本語の「油断」という漢字はとても意味深いものだと思うのです。「油」を「断つ」と書いて油断です。

マタイによる福音書25章には「十人のおとめ」のたとえが書かれています。花婿を迎えに出ていく女性が10人いましたが、そのうち5人は賢く、5人は愚かでした。賢い5人は灯のために予備の油を用意し、愚かな5人は予備の油を用意しませんでした。夜が更け、花婿の到着が遅れたので、愚かな5人の灯には油が切れてしましました。しかし、賢い5人は予備の油があったので、その灯は消えませんでした。

このようなお話です。予備の油を用意しておかない状態は、油が断たれた状態で、愚かな振舞なのです。準備することの大切さが分かると思います。

油断しないで、光の武具を付けることが、キリストをまとうという事なのです。先日NHKの「美の壺」という番組を見ていて、着物が紹介されていました。大島紬だったか、忘れましたが、その着物は着るのではなく、纏うのだと語られていました。正確な意味は解りませんが、纏うという言葉には日本語の美しさと豊かさが込められています。

ただ着るというのではなく、私たちがキリストを纏う時、品位をもって歩むことが出来るのではないでしょうか。