前 奏
招 詞   イザヤ書45章23節
讃 美   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
讃 美   新生244 救い主にぞわれは仕えん
主の祈り
讃 美   新生107 神の恵みはいと高し
聖 書   ローマの信徒への手紙14章1~12節
                         (新共同訳聖書 新約P293)
宣 教   「カラフルな私たち」         宣教者:富田愛世牧師

【多様性】
 ダイバーシティという言葉を聞いたことがあるでしょうか。私は最初にこの言葉を聞いた時、ダイバーのシティですから、スキューバダイビングのためのリゾートかなとか、シティというから特別なIT環境の整った未来的な都市の事かなと思いました。そんな風に思った方はいませんか?
 実際には「多様性」という事なのですね。ただ、私の乏しい英語の知識から「多様」という事を考えるとバラエティーとかモザイクという表現の方がピンとくるのですが、慣れというものは恐ろしいもので、数年前から様々な場面でダイバーシティという言葉が使われるようになったので、自分でも使えるようになってきました。
 今日は初めに「多様性」という事から聖書に入っていきたいと思うのですが、聖書の中には「多様性」という概念がたくさん散りばめられていると思います。天地創造の場面でも、あらゆる種類の生き物を創り、エデンの園にはたくさんの種類の草花、樹木が生えていました。
 また、逆説的にバベルの塔の物語では、皆が同じように一つでいることを良しとせず、世界中に散らされました。基本的な考えの中に多様性を大切にするという事があるのだと思います。
 さて、今日の聖書に目を移すと、これはローマという、当時の世界の中心的な都市にある教会に向けた手紙だということが分かります。ずっと読んできたのですから、解りきったことだと言われるかもしれません。
 ですが、改めてローマの教会はどのような教会だったかを見てみたいと思うのです。当時の世界はローマが中心でした「すべての道はローマに通じる」という有名な言葉があるように、あらゆる人、文化、経済、芸術、など、ありとあらゆるものが集まっていました。
 そして、ローマ教会もいろいろな人が集まっていたと思います。多くの人は異邦人だったかもしれませんが、一括りにすることが出来なかったと思います。そして、当然の事として、その中にはユダヤ人もいたのです。異邦人とユダヤ人が混在する、多様性に満ちた教会だったようです。

【食物規定】
 現代の私たちにとっては、多様性に満ちた教会というのは魅力的な言葉かもしれませんが、当時の人々にとっては、それほど魅力的だったとは思えません。それどころか、秩序のない教会と映っていたかもしれません。
 2節を見ると「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」と書かれています。教会の中に食物規定の事で問題が起こっていたようなのです。
 ここを読むと、ユダヤの食物規定は菜食主義だったのかと思われる方がいるかもしれませんが、そんなことはありません。ここで菜食主義的な書き方がされているのには理由があります。それは、浄不浄の観念が強く、不浄の肉を食べないようにすることが、菜食に繋がったようです。
 食物規定だけでなく、ユダヤ教を中心としたユダヤ社会には様々な規定がありました。そして、ユダヤ人にとっては、それらの規定を守ることが民族としてのアイデンティティを保つために必要なことでした。さらに、それらは習慣として生活の中心にあったのです。
 ユダヤ社会だけではなく、当時のキリスト教会の中にも、その影響は大きなものだったと思われます。ガラテヤの信徒への手紙2章11節以下を見ると、ペトロがアンティオキアの教会を訪ねた時、最初は異邦人クリスチャンたちと食事を共にしていました。ところが、エルサレム教会からの使者が来ると彼らを恐れて異邦人クリスチャンたちと食事を共にするのをためらったとあります。
 このような行為は、福音の本質からすれば、あってはならない行動だったのです。ですから、パウロはペトロに対して、面と向かって反対したと書かれているのです。
 5節以下に出てくる暦の問題も同じことです。ユダヤ教においては安息日や過ぎ越しの祭りなどの祝祭日を守ることが重要でした。しかし、それぞれ違う文化的背景を持つ人にとっては意味のないものになってしまいます。
 そして、それらはキリストの福音を信じる信仰とは直接的な関係のないものなのです。

【強い人と弱い人】
 もう一度、1節を見てみたいと思います。そこには「信仰の弱い人を受け入れなさい」と書かれています。本来、信仰に、強いとか弱いという事があるのかと問うならば、私はないと思っています。信仰は、自分の努力や精進によって得るものではなく、神からの賜物です。仮に自分の努力や精進によるならば、強い信仰や弱い信仰と言われるものが結果として出てくるかもしれません。しかし、賜物だとするなら、それは、その人に対して十分で、最善のものが与えられるはずです。
 ただ、ここで語られているのは、そのような本質的な事柄ではなく「受け入れる」ということを語るために、強い人と弱い人を対比させて書いているのです。
 何を食べても良いとか、すべての日が同じと考えることのできる強い人と、食べ物を限定したり、特別な日を重んじたりする弱い人がいるとするならば、強い人は弱い人を受け入れなさいと勧めているのです。
 私たちの社会の中でも同じようなことが勧められることがあります。そんな時に、必ず出てくる反論に「強く見えても本当は弱いかもしれない」とか「表面的に判断するべきではない」といったものです。しかし、ここで一つ明確にされていることがあります。それは当時のキリスト教にとって、エルサレム教会は多数派、マジョリティであり、異邦人の属している教会は少数派、マイノリティだという事です。
 つまり、強い人は本質的に間違ってはいないかもしれませんが、それでも弱い人の考え方を受け入れるくらい、さらに強くなりなさいという事ではないでしょうか。人間的な判断で、正しさばかりを主張する時、そこに調和は生まれてこないのかもしれません。
 さらに「裁くな」「侮るな」という文脈も大切になってくるのです。食物規定や暦の問題を語っていますが、そういった生活規定とは関係のない「他人の召し使いを裁くな」という事が、その途中にある4節で語られています。ここでは、召し使いが立つのも倒れるのも主人次第だと語られています。つまり、裁くことは神の働きであって、私たちにはそれを判断する基準はないという事なのです。

【主のため】
 8節には「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と書かれています。どういうことでしょうか。主のために生きるとか、主のために死ぬというのは、極端に考えると殉教しろと言っているようにも受け取れるかもしれません。
 しかし、ここで語られていることは、そのような具体的な事柄ではなく、信仰的な動機について語られているのです。同じローマの信徒への手紙6章3節で「キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた私たちが皆、またその死にあずかるためにバプテスマを受けたことを」と書かれています。
 水の中に沈められることによって、古い罪の身が死に、水の中から上げられることによって、新しい自分がキリストと共に生きるようになることを現しています。バプテスマを受けることを通して、十字架に架けられたキリストと運命を共にし、キリストと共に死に、キリストと共に生きることになるのです。
 食べる者に対して、これは食べての良いが、これは食べてはいけないと、信仰的な動機から判断する人もいれば、信仰的な動機によって、すべての食べ物は神からの賜物であるから、何を食べても構わないと判断する人もいるのです。
 日に対しても、信仰的な動機から、安息日やヘブル語聖書に定められている祭りの日を大切にする人がいるのです。反対に、信仰的な動機から、神が作られた日だから、すべて同じように大切だ、特別な日を造る必要はないと判断する人もいるのです。
 どちらが正しいとか、間違っているという事ではありません。私たちは同じ信仰と言っても、その表現の仕方は一人ひとり違っているのです。違っていて構わないのです。そして、違うからこそ、それぞれが謙遜になることを学ばなければならないし、謙遜になるチャンスがあるという事なのです。
 さらに、そのような違いによって、私たちの信仰は画一的なものではなく、豊かなものへと変えられていくのではないでしょうか。神はそのようなカラフルな私たちを喜ばれるのです。

祈 り
讃 美   新生639 主の恵みに生きる
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏