前 奏
招 詞   詩編34編14~15節
讃 美   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
讃 美   新生576 共に集い
主の祈り
讃 美   新生563 すべての恵みの
聖 書   ローマの信徒への手紙14章13~23節
                          (新共同訳聖書 新約P293)
宣 教   「優等生でなくても」         宣教者:富田愛世牧師
【誘惑】
 今日は「優等生でなくても」というタイトルを付けました。最初にこの箇所を読んだ時、小見出しを見てドキッとしたからです。そこには「兄弟を罪に誘ってはならない」と書かれています。罪に誘ってはならないと注意されるという事は、兄弟を罪に誘う人がいるという事ですから、ローマの教会にいる人たちは、いわゆる優等生ばかりではないという事なのかなと思ったのです。
 しかし、メッセージの準備をしていくうちに、内容とタイトルが合わなくなってしまうような気がしました。また、12章に入ってからの大きなテーマが「キリストの者たちへの生活訓」となっていますので、クリスチャンとしての生活は、こうであらねばならないという戒めのように感じることがあると思います。
 ただ、そのように感じながらも、パウロが語ろうとしているのは、こうしなさいとか、こうしてはいけないというような戒めを語ろうとしているのではないだろうと思うので、何となく、歯切れの悪い語り口調だと感じてしまいます。
 13節では「つまずきとなるものを兄弟の前に置くな」と語りますが、14節では「それ自体で汚れたものはない」と言っているのですから、最後までよく読まないと何を語ろうとしているのか、非常に分かりにくいような気がします。
 そのようなことを思いながら、この箇所で語られる一つの問題は「誘惑」という事だと思うのです。私たちの周りには、罪へと誘惑する「もの」がたくさんあると思います。そして、教会では、新しく信仰に入った人に向けて、罪の誘惑を避けるようにと勧めることが多いと思います。
 とても大切なことです。そして、罪の誘惑を避けることと同時に、もう一つ大切なこととして、私たちが誘惑者になる可能性があるという事なのです。
【食物規定】
 15節以下を見ると、もう一度、食物規定の影響について語られていますが、その前の14節に「それ自体で汚れたものは何もない」とあります。パウロの考え方の基本には、私たちが口にするものについては「それ自体で汚れたものは何もない」という事だと思うのです。
 食べ物や飲み物が、私たちを誘惑して、罪に誘うのではなく、食べ物や飲み物を食べる人であったり、食べたり、飲んだりすることを勧める人に問題があるのです。
 ある人たちは、何を食べても構わないと思って、なんでも食べる。しかし、別の人たちは食べ物に制限をかけている。そうであるならば、食べ物に制限をかけている人の前で、その制限のかかったものを食べないようにと勧めているのです。
 ただそれだけのことなのです。読むだけなら、とても簡単なことではないかと思ってしまいます。しかし、これらの事は、それぞれにとって習慣となっているので、注意しなければならないのではないでしょうか。
 宗教的な食物規定ではありませんが、健康志向の強い人にありがちなこととして、例えば納豆は発酵食品として、とても健康に良いから食べた方がよいですと勧める人がいます。しかし、どうしてもあの匂いや味が苦手という人もいるわけです。健康志向の強い人としては親切心から勧めているわけですが、苦手な人にとっては大きなお世話で、断ると、その人との関係性が壊れるかもしれないと思ってしまって、悩んでしまうこともあるわけで、つまずきとなってしまいます。
 誰かにとって、つまずきとなる食物があるならば、それらを避けるように勧められていますが、それは「決まりだから」ではなく、愛に根差した動機からでなければ意味がありません。そして、愛に根差すという事は、自分が良かれと思ってという事とは違います。相手にとって良いことでなければならないのです。
 相手の事を完全に理解することはもちろんできません。しかし、なぜ、そうしているのか、とある程度の事を想像しながら、否定的な思いにならないようにして、理解しようと努力することが必要なのです。
【義と平和と喜び】
 次に17節を見ると、そこには「神の国」という言葉が突然出てきます。神の国とは神の支配と言い換えても構わないと思います。そして、神の国の到来を告げるという事は、イエスのガリラヤでの宣教の中心的な事柄でした。
 その影響で、当時のクリスチャンたちは神の国の到来を待ち望んでいたのです。前回の「終末」という考え方と同じで、当時のクリスチャンたちは、もうすぐにでもキリストが再臨し、終末となって救いが完成すると思っていたわけです。ですから、パウロはキリストの再臨のために備えることの重要さを語りました。
 ローマの教会の中には食べ物のことについて、何か問題が起こっていたのは事実だと思います。問題がなければ、わざわざ手紙には書かないはずですから。しかし、それらは枝葉末節的なことであって、教会を立てあげるためには、また、一人ひとりの信仰を成長させるためには、第一にすべきことではないのです。
 教会が、そして、一人ひとりの信仰において、第一にしなければならないことは、神の国を求めることなのです。当時の信仰においてはキリストの再臨という事ですが、現代の私たちにとっては、キリストの再臨と言われてもピンとこないかもしれません。
 先ほど言ったように神の国は神の支配と言い換えても構わないと言いましたように、神の支配という事に注目していかなければならないのではないでしょうか。そこにはこの世界を神が支配してくださっているという事実と同時に、私を神が支配しているという事を自覚し、神の支配に委ねるという事が大切になるのです。
 この点についてパウロははっきりと、それは「飲み食い」ではなく、聖霊によって与えられる「義と平和と喜び」だというのです。
 「義」とは何でしょうか。それは神との正しい関係を意味しています。そして「平和」とは、神との正しい関係が築かれた時、私たちが感じる平安であり、平安に包まれ、穏やかに過ごすことによって、隣人との関係においても、愛に根差した配慮を持って接することができるようになるのです。
 さらに「喜び」とは、何かによって規制されたり、圧をかけられたりすることなく、私たちが、本来の私たちでいられる、素の自分でいられること。それを神が赦していてくださるという事に気付かされることなのです。そして、本来の自分でいることを神もまた、喜んでくださるのです。
【確信を持つ】
 20節でもう一度、食べ物のことが語られます。「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのです」と語るように、ここで前提となるのはすべてが清いということです。
 何度も繰り返しになりますが、パウロにとっては、すべてのものが神によって創られたわけですから、悪いものは何一つないのです。すべてが清いという事が、大前提であるという事なのです。
 しかし、ユダヤの古い習慣を守ることを大切にする人には「断つべきもの」があるのです。そういった人にとっては、あるものは「悪い物」となってしまうのです。何度も言うように、その「もの」が悪いのではなく、それを食べることによって、罪の意識を持つ人にとっては「悪い物」になるという事です。
 21節を見るとパウロは極端なことを書いています。誰かのつまずきになるようなものがあるなら、それらすべてを絶つことによって、つまずきを与える者、兄弟を罪に誘う者にならないようになれるというのです。
 しかし、それはパウロの本心ではないように思います。それらのことによって教会の働きが妨げられるとするなら、それは残念なことです。ですから、最終手段として、それらを避けるようにと語っているのではないでしょうか。
 22節の後半に「自分の決心にやましさを感じない人は幸いです」とあります。教会内の人間関係において、自分勝手な思い込みや相手に対する願望から解放され、隣り人に対して、愛に根差した態度で接することが大切なのではないでしょうか。
 そのためには想像力を持って、思いめぐらしていくことが大切なのです。疑いながら食べるという事は、確信がないのですから、やめた方がよいのです。しかし、隣り人との関係を造っていきたいと願うなら、その人の価値観に反することを、愛を持って慎んでいくことが勧められるのです。

祈 り
讃 美   新生479 深い罪に悩む時
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏