前 奏
招 詞   詩編37編7節
讃 美   新生  5 神の子たちよ 主に帰せよ
開会の祈り
讃 美   新生134 生命のみことば
主の祈り
讃 美   新生367 神によりて
聖 書   ローマの信徒への手紙15章1~6節
                      (新共同訳聖書 新約P295)
宣 教   「自己満足を越えて」     宣教者:富田愛世牧師

【強い者と強くない者】
 ローマの信徒への手紙14章では、ローマ教会の中に食べ物についての問題が起こっていたことが書かれていました。前回の箇所で、教会が分裂するほどの大きな問題ではないと思いますと言いましたが、現実に目を向ける時、食べ物の問題自体はそれほど大きな問題ではないかもしれませんが、それがきっかけとなって大きな問題を引き起こすことがあるのではないかと思います。
 パウロは伝道旅行を続ける中で、特に異邦人による教会をいくつか立てあげました。そして、それらの教会の中で、異邦人とユダヤ人クリスチャンが対立してしまうという現実を見てきたと思うのです。
 そして、その原因が、直接的な福音理解や神学的なことではなく、今回のような食べ物に関することであったり、生活習慣の違いであったりという、信仰とは関係の薄いことが原因だったことを経験していたと思います。
 そのような経験を通して、ローマ教会に対してアドバイスをしているのではないかと思うのです。そのアドバイスとして、教会という信仰共同体が一致していくためには、お互いに対する配慮が必要であり「強い者は、強くない者の弱さを担うべき」だと語っているのです。
 それでは、強い者とは誰なのでしょうか。パウロは「わたしたち」と自分を含めて、この手紙を読んでいる、私たちが強い者だと語っているのです。ここでいう「強い者」とは、力が強いとか意志が強いとか、そういうことではなく、信仰的に成熟した者を指しているのです。
 信仰的な成熟と言われると、何をイメージするか、人それぞれかも知れません。しかし、ここで語られる信仰的な成熟とは罪から解放され、自由にされた者を指しているのです。そして、その自由をどのように用いるのかという事が問われてくるのです。
【忍耐と励まし】
 強い者とは別の訳では出来る者と訳されています。出来るとか出来ないという事を評価基準にすると能力主義とか効率主義的な感覚がして、受け入れにくい人がいるかもしれません。
 しかし、ここでは出来る人になれと命じているのではなく、出来る人という立場に立たされているという前提に立って論じているのです。
 一般的に出来る人と言われる人は、出来ない人を見ると、なぜ出来ないのかが分からないと思うのです。学校では先生が生徒に対して「なぜ解らないの」と質問するようなシーンがよくあります。質問なら、まだいいですが、問い詰めるような先生も中にはいるようで、問い詰められると余計に解らなくなってしまいます。
 そして、出来る人は出来ない様子を見ながらイライラしますが、それに対して「自分の満足を求めるべきではありません」と語っているのです。出来ない様子を見てイライラするのは、自分の満足が満たされないからなのです。
 そのような現実に対して、パウロは「忍耐と慰めを学びなさい」と語っています。忍耐と慰めを学ぶことによって「希望」を持つことができるというのです。
 出来る人と出来ない人との関係において「忍耐」という言葉が使われる時は、出来る人が忍耐を持って、出来ない人が出来るようになるのを待つ、というように使われることが多いのではないかと思います。
 それでは「慰め」という言葉はどのように使われるでしょうか。よく言われることで、私も経験したことのある「慰め」として、病気の方をお見舞いに行った時のことを思い出します。病気で入院していたりすると、不安な気持ちでいるのではないかと思い、何とか励まそうとしてお見舞いに行くわけです。しかし、お見舞いしながら、いろいろな話をしているうちに、こちらが元気付けられることがあります。
 強い者として、強くない者を見舞ったつもりが、反対に慰められ、励まされて帰ってくるわけです。忍耐と慰めが対になって語られているという事は、こういうことではないでしょうか。
【同じ思い】
 つまり、忍耐と慰めを学ぶことによって、強い者も強くない者も共に成長することが出来るのです。強い者は忍耐と慰めによって、心に余裕を持つことを学ぶことが出来ますし、強くない者は、忍耐して待ってもらえるならば出来るようになるのではないでしょうか。そして、慰められることによって、無くしていた自信を取り戻すことが出来るのではないでしょうか。
 ただし、「何でもできるようになる」という事ではありません。それでも出来ないことはあるのです。強い者、出来る者だとしても、何でもできるわけではありません。出来ることもあれば、出来ないこともあるのです。そして、強くない者、出来ない者だとしても、何にも出来ないわけではなく、出来ることだってあるはずです。
 神は、それで良しとされるのです。
 さらに5節を見ると「忍耐と慰めの源」は神であるという事です。この神がキリストに倣って、私たちに「同じ思い」を抱かせてくださるというのです。
 同じ思いというの時、私たちは「カラスは白い」と言われたなら、黒く見えたとしても、皆が白だというなら、白だというように、同じになることを思い浮かべるかもしれません。しかし、聖書が語るのはそういうことではありません。
 もしそうであれば、わざわざ聖書がそのようなことを書かなくても、全体主義のような思想によって、一致団結して何かに立ち向かっていきましょう。などと言えばよいだけです。
 そうではなく、違いがあることを認め、その違いをお互いに喜ぶという「同じ」思いを持つことが大切なのではないでしょうか。
 マザー・テレサの有名な言葉に「わたしにできないことが、あなたにはできます。あなたにできないことが、わたしにはできます。力を合わせれば、きっとすばらしいことができるでしょう」という言葉があります。これはある人がマザー・テレサに向かって「あなたのしていることはすごすぎます。私にはなにもできません」と発言したことに対して、テレサが返した言葉だそうです。ここに同じ思いがあるのではないでしょうか。
【賛美するために】
 そして、6節を見ると、そこには「心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」と書かれています。
 ローマ教会の中にいるユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間には、食べ物に関する問題がありました。そして、それが教会分裂の危機にまで発展しないか、パウロは心配してこの手紙に一つのアドバイスを書いているのです。
 こうすれば良いとか、ああすれば良いという方法論も大切です。しかし、それらは食べ物の問題と同じように枝葉末節的な事柄でしかないのです。本当に大切にしなければならないこと、クリスチャンが一致するのは、ただ一点「神をほめたたえる」という行為によるのではないでしょうか。
 教理、生活習慣、この世的な価値観においては「同じ思い」になることは出来ないでしょう。そして、これらのことにおいては「違い」の方が大切になる場合があるのも事実です。違いを喜び、違いを認めることによって、より豊かなものへと変えられていくのです。
 しかし、神を賛美し、礼拝することにおいてはクリスチャンの一致を妨げるものは、なにもないのです。もちろん、賛美する方法には音楽を用いた賛美もあれば、絵画を用いた賛美、身体表現、踊りを用いた賛美、様々な表現方法があるでしょう。礼拝のスタイルも様々で構わないのです。ただ、神を賛美し、礼拝する心、内なる思いにおいては一つにされていくのではないでしょうか。

祈 り
讃 美   新生388 主よわが心に
主の晩餐
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏