前 奏
招 詞   イザヤ書52章15節
讃 美   新生  5 神の子たちよ 主に帰せよ
開会の祈り
讃 美   新生376 友よ聞け主のことば
主の祈り
讃 美   新生296 十字架のイエスを仰ぎ見れば
聖 書   ローマの信徒への手紙15章14~21節
                               (新共同訳聖書 新約P295)
宣 教   「貧しさこそ誇り」  宣教者:富田愛世牧師
【挨拶】
 2021年の10月からローマの信徒への手紙を読み始め、今週からいよいよ最後の部分に入ります。前にもお話したように15章14節からは最後の締めくくりとして、いろいろな関係者への挨拶や今後の予定のようなものが書かれています。
 挨拶と言われると何となく簡単なことが書かれていると思われるかもしれませんが、たかが挨拶、されど挨拶という感じで、ここにも大切なことがたくさん書かれています。また、挨拶というものは、簡単なことのようで、実はとても大切なことではないかと思っています。
 ニュースなどで事件を起こした人や被害にあった人の知人や近所の方がインタビューを受ける場面をよく目にします。そのインタビューの中で、犯人や被害者の人柄が語られる時、たいていの場合「きちんと挨拶のできる人でした」とか「近所付き合いのない人でした」という言い方をして、挨拶のできる人は、ある程度、常識的な人だというイメージを持つことが多いのではないでしょうか。
 初対面の人との第一印象やその後の付き合い方ということを考える時、挨拶次第で関係性が左右されてしまうことがあるわけですから大切なものだと思います。
 パウロはこの手紙を締めくくるにあたって、ローマ教会のクリスチャンに挨拶をおくっています。14節を見るとまず「兄弟たち」と言って、お互いの関係性を確認しています。単なる人間関係ではなく、キリストを中心とした関係性を作りたいと願っているわけです。
 そして、この手紙の中で書いてきたことが、時には厳しい内容でしたが、それを受け入れるだけの成熟した人間性と信仰を持っていると確信しているようです。なぜなら、善意に満ち、知識が豊富で、互いに戒め合うことのできる素晴らしい人たちだと語っています。まだ、会ったことはないけれど、あなたたちはこのような人たちだという確信をもっているのです。
【使命の確認】
 15節を見ると「この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」とあるように、かなり厳しいことを語っています。14章に書かれていた「食物規定」に関しては、本質的には自由であるという事は間違ってはいません。しかし、強くない人たちに対する配慮という点で、ローマ教会のクリスチャンたちに忍耐を求めています。
 まだ、会ったこともないような人から、このようなアドバイスを受けたなら、私のような未熟者は、すぐに反論したくなり、このようなアドバイスを受け入れることが出来ないと思います。
 しかし、パウロはローマ教会のクリスチャンたちと間に、単なる人間関係を築こうとしていたわけではなく、お互いに成長することのできるような、成熟した関係性を築こうとしていたのです。
 それは、パウロ自身の使命に関わってくる事柄だったようです。15節の後半を見ると厳しいことを書いた背景として、それが神の恵みであるというのです。さらにパウロは異邦人の使徒として仕えているのだと語ります。
 16節の後半を見ると、そこには「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」と書かれています。異邦人の存在が、聖霊によって聖なるものとされるというのです。ユダヤ人の思考の中には有り得ない事柄です。
 ユダヤ人は神に選ばれた民ですから、聖なるものです。しかし、異邦人は選ばれていないわけですから、聖なるものであるはずがないと考えていました。そのような異邦人に聖霊が働きかけるならば、聖なるものに変えられるのです。
 さらに、神に喜ばれる供え物になるというのです。本来ならば供え物は、私たちがどこかから携えて来なければならないものです。しかし、異邦人が神に喜ばれる供え物だというのですから、別の何かを持ってこなくても構わないのです。私が神に喜ばれる供え物だというのです。
 こんなに光栄なことはないのではないでしょうか。
【パウロの誇り】
 17節を見ると「神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています」と書かれています。パウロにとって、神のために働くことは、疲れること、大変なことではなく、誇りだというのです。
 誇りを持って働くことが出来るというのは、本当に幸せなことではないでしょうか。今、私たち自身もそうですが、どれだけの人が自分の働きに誇りを持っているでしょうか。
 これは価値観の違いなのかもしれませんが、それで済ませることのできる問題ではないと思うのです。経済至上主義の日本において「稼ぐ」という事が第一になってしまっているように感じます。「稼ぐ」ことのできる働きに価値を認め、「稼ぐ」ことの出来ない働きには価値を認めづらくなっているように思えてしょうがないのです。
 これは、私自身が感じていることでもあります。昨年の誕生日で還暦を迎えましたが、年金事務所から年金支給のお知らせが届きました。その額を見て愕然としました。しかし、愕然としたという事は、私自身の価値観が経済至上主義的な価値観に染まってしまっているという事なのです。
 経済至上主義的な価値観を持ってしまうと、稼げない働きは愚かな働きに思えてしまうのです。しかし、聖書の価値観はどうなのでしょうか。18節を見ると「キリストがわたしを通して働かれた」とあります。
 パウロの働きとは、すなわちキリストの働きだったのだというのです。そして、パウロの言葉ではありませんが、使徒言行録の中でペトロたち、イエスの弟子たちの言葉は「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と言って、イエス・キリストの名によって、人々の必要を満たしているのです。
 パウロは18節の後半から19節にかけて「言葉と行いを通して」また「しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれた」と語っているのです。すぐには信じられないかもしれないし、信じたからと言って、不安が取り除かれるのか、確信はありません。私自身、不安の中にいるからです。
【地の果てまで】
 であるからこそ、聖書に立ち返らなければならないのです。続きを読むと「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」と語っています。
 そして、20節では「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました」と語っています。パウロの働きは、まだ知られていない所で福音を語ることだったのです。「他人の築いた土台の上」というような、誰かが下地を作った所に行くのではなく、まだ、誰も行ったことのない所に行こうとしているのです。
 伝道のパイオニアとして、道を切り開く働きをしようとしているのです。今日は読んでいませんが、24節を見ると「イスパニア」という地名が出てきます。現在のスペインの事ですが、パウロはアンティオキアを拠点として、小アジアからローマへ向かい、そこからさらに西に向けてイスパニアまで、地中海沿岸を巡ろうと計画しているのです。
 つまり、世界伝道をすでに志しているのです。私たちは世界伝道と聞くとすぐに「宣教師」を送り出すことと考えますが、そうではありません。世界伝道を覚えるとは、自分もその働きを担う一人であるというところまで、考えなければなりません。
 今回の日本バプテスト連盟の機構改革の中で、国外伝道という表現の仕方から国際宣教という表現方法に代わります。それは、どこか他の国に行くという事だけではなく、足元を見るならば、すでに私たちの隣には、たくさんの外国からの人々がいるという事に気付かなければならないという事なのです。
 様々な事情の中で、日本に来て、言葉も不自由な中、頼る人も少なく、不安と孤独の中にいる、外国の人がいるのです。私たちの隣り人がいるのです。そして、私たちが、その方たちの隣り人になることが出来るのではないでしょうか。イエスのように・・・

祈 り
讃 美   新生650 喜びて主に仕えよ
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏