前 奏 招 詞 列王記上8章28節 讃 美 新生 13 ほめまつれ 主なる神 開会の祈り 讃 美 新生281 み座にいます小羊をば 主の祈り 讃 美 新生137 うみべの野で 聖 書 ローマの信徒への手紙15章30~33節 (新共同訳聖書 新約P296) 宣 教 「私のために祈って下さい」 宣教者:富田愛世牧師 【ローマ訪問の計画】 前回、お読みしたローマの信徒への手紙15章22~29節には「ローマ訪問の計画」という小見出しが付いていました。この手紙の締めくくりの挨拶をするにあたって、まずパウロ自身の思いをローマ教会にいるクリスチャンに伝えようとしているのです。 ここで少し、歴史的な側面を見てみたいと思うのですが、このローマの信徒への手紙は紀元57年頃にコリントで書かれたと考えられています。使徒言行録18章を見るとパウロはアテネでの伝道活動があまりうまくいかず、失意の中、コリントへ向かいました。そして、コリントでアキラとプリスキラというユダヤ人クリスチャンの夫婦に出会います。この二人は、元々ローマにいたようですが、クラウディウス帝の勅令によって、ローマから退去させられたようです。 この勅令が出されたのは紀元49年頃だと考えられています。そして、この手紙が書かれたのが57年ですから、アキラとプリスキラはローマを出てから8年位経っていた頃だと思われます。 失意の中にいたパウロは、コリントの町で同じ生業のアキラとプリスキラに出会います。そして、この夫婦がクリスチャンだという事も知り、意気投合して一緒に働くようになったようです。この後のパウロの活動に積極的に関わり、善き助け手としてパウロを支えていたようですが、この二人もローマから退去させられ、失意の中でコリントで働いていたと思われますから、パウロの気持ちがよく解っていたのではないかと思います。 手紙の内容に戻ると、パウロはローマに行こうとしていますが、その前にしなければならない働きがありました。それは、25節以降に書かれているように、マケドニア州とアカイア州のクリスチャンたちから預かっている募金をエルサレム教会の貧しいクリスチャンたちに届けることでした。 22~24節まではパウロの計画としてローマに寄ってからイスパニアへ向かうという事を希望を持って、わくわくしながら書いているように感じます。ところが、今日お読みした30節からの部分には、わくわく感がなくなっているような気がするのです。反対に悲痛な思いの中で書いているような気がするのです。 【私のために祈って下さい】 30節を見ると、私のために祈って下さいという事が書かれています。私たちはクリスチャン同士の挨拶や手紙の中で、よく「祈って下さい」とか「祈っています」という言葉を交わしていると思います。 以前「お祈りしています。うそ?ほんと?」というお話をしたことがあると思いますが、覚えておられるでしょうか。ジャパン・カルバリー・クルセードという団体で巡回伝道者として働かれている福沢満雄先生という方が「たねまき」というニュースレターに書かれた文章で、多くの日本人は無神論者だと自認しているにも拘らず、挨拶の中で「お祈りしています」という言葉を用いている。けれど、誰に向かって祈っているのだろうという疑問から始まり、祈る先をハッキリ知っているクリスチャンも「お祈りしています」と言いながら本当に祈っているだろうか、社交辞令的な挨拶としていないだろうか、という問いかけがなされていました。 この先生はそのような問いかけをしながら、自分を振り返り「私はお祈りしていますと言った時には、すぐに心の中で祈るようにしています」とおっしゃっていました。私もその記事を読んでから、そうするようにしていますが、大きな問いかけだと思います。 パウロは、私のために祈って下さいというまえに「わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします」と語っているのです。 簡単に祈って下さいというのではなく、まず、私たちの主イエス・キリストによってと語るのです。そこには同じ信仰を持った者同士の連帯感という思いが込められているのではないでしょうか。 そして、次に「霊が与えてくださる愛によって」と語ります。ただ祈って下さいではなく、愛によって祈ってほしいと願っているのです。この愛も、ただの愛ではなく、霊によって与えられる愛なのです。 霊によって与えられる愛とは、賜物としてのあいということを意味していると思うのです。私たちは愛という言葉の中に「好き」とか「嫌い」という感情的なものをイメージすることが多いと思います。 しかし、ここで語られる愛は、そのような感情的なものではなく、自分と同じように相手の事を思うほどの愛として語られているのです。 【熱心に祈って下さい】 さらに続きを読むと「わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」と書かれています。わざわざ言わなくても「祈ってください」と言えば、熱心に祈ってくれるはずだと期待するとおもいます。 しかし、パウロの思いは、このように言わなければならないほど切羽詰まったものだったのではないでしょうか。 私は一生懸命に祈っているのです。ですから、あなたがたも私のために祈ってほしいというのです。しかし、それだけでは足りないのです。 私のために、私と一緒に祈ってほしいと願っているのです。パウロは一緒に祈ってくれているという確信が欲しかったのではないでしょうか。 そして、その思いは「神に熱心に祈ってください」という言葉にして伝えなければならないほど、緊張感に溢れていたという事なのです。 なぜパウロはここまで切羽詰まった気持ちになって、緊張感を持って訴えているのでしょうか。それは、これからエルサレムに行かなければならないからなのです。 エルサレムという町には神殿があり、ユダヤ人にとっては親しみのある町だったと思いますし、初期のクリスチャンにとっても、イエスの直弟子であるペトロたちの教会があり、そこにはイエスの弟であり、教会の指導的な立場にあったヤコブなどもいたと思います。 しかし、パウロにとっては安心できる場所ではなかったようです。異邦人クリスチャンの使徒としての使命を持っているパウロに対して、一部の保守的なユダヤ人クリスチャンたちが敵対心を抱いていたことに気付いていたでしょうし、そのような忠告をする人たちもいたようです。だから、祈ってほしかったのです。 【祈りの答え】 31節を読むと「わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」と書かれています。結果から言えば、使徒言行録21章にあるように、パウロはエルサレムで捕らえられてしまいます。 パウロは誰に捕らえられてしまったのでしょうか。悪者たちの陰謀によって捕らえられてしまったのでしょうか。そうではないようなのです。パウロを捕らえたのは保守的で熱心なクリスチャンたちだったのです。小アジアから来たユダヤ人クリスチャンで、彼らが群衆を扇動してパウロを捕らえてしまったのです。 パウロも、また、ローマの教会のクリスチャンたちも熱心に祈ってきたはずです。その祈りは神の元へ届いたのでしょうか。祈りの答えはどのようなものだったのでしょうか。 手紙に書かれているように「ユダヤにいる不信の者たちから守られ」たでしょうか。殺されていないので、守られたと言えるかもしれません。そして、パウロを守るために用いられたのがローマの千人隊長でした。さらにパウロにはローマの市民権があることが分かりました。それによって千人隊長はパウロをローマに連行して正式な裁判を受けるようにしたのです。 パウロの祈りは、きかれたのでしょうか。祈りがきかれるとは、どういうことなのでしょうか。私たちは自分勝手で、何においても自分にとって都合の良いことを求めてしまいます。 しかし、神が祈りをきかれるという事は、私にとって都合の良いことが起こることではありません。もしかすると、都合の悪い状況になってしまうかもしれないのです。 しかし、神はいつでも、私たちにとって最善の道を用意してくださいます。それは、もしかすると苦難の道になるのかもしれません。しかし、守られるのです。そして、神の計画ならば、それが実現するのです。 祈 り 讃 美 新生445 心静め語れ主と 主の晩餐 献 金 頌 栄 新生671 ものみなたたえよ 祝 祷 後 奏
2023年3月5日 主日礼拝
投稿日 : 2023年3月5日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー