前 奏
招 詞   詩編63編7節
讃 美   新生 13 ほめまつれ 主なる神
開会の祈り(東日本大震災から12年を覚えての祈り)
讃 美   新生 27 たたえよあがない主イエス
主の祈り
讃 美   新生230 丘の上に立てる十字架
聖 書   ローマの信徒への手紙16章1~16節
                (新共同訳聖書 新約P297)
宣 教   「大切な人々」   宣教者:富田愛世牧師
【よろしく】
 私たちは日常の会話の中で、様々な言葉を用いて自分の感情や気持ちを表現します。その中には意味深いものもあれば、社交辞令的なものも少なくなりません。このローマの信徒への手紙の最後の部分、15章14節以降は締めくくりの挨拶ですが、ここを読み始めてから「挨拶」という言葉に過剰に反応するようになりました。
 私は車を運転するのが好きなのですが、運転しながら、いつもラジオを付けています。真剣に聞いていることもありますが、たいていの場合は聞き流しています。そのような聞き方ですが、こだわりのある言葉が聞こえると真剣に聞いてしまいます。
 最近ラジオでよく聞かれるコマーシャルのようなものがあるのですが、そこで「ラジオから聞こえる言葉で一番多く聞かれる言葉は挨拶の言葉です」というような感じの話が流れ「おはようございます」「こんにちは」から始まって、様々な挨拶がありますというように続いていくのです。それを聞きながら、本当にその通りだなと思わされました。
 今日の箇所にはパウロからの「よろしく」という挨拶が出てきますが、皆さんは「よろしく」という言葉を聞くとどのように感じますか。日本では社交辞令的に「よろしく」という挨拶が使われることが多くなっているように思います。
 これも若者と年配者では違ってくるのかもしれませんが、私が中学生くらいの頃、矢沢永吉というロックンロールのカリスマ的な歌手がいて、この人がインタビューなどの最後に必ず「よろしく」と言っていました。その影響で私たちの年代以降、特に意味もなく「よろしく」という挨拶が交わされるようになった時期がありました。
 しかし、「よろしく」という挨拶は、本来、敬意を表して喜び迎える挨拶の言葉だったようです。今日の聖書箇所でパウロが「よろしく」と語るのは、そういった意味の挨拶として、ローマにいる知人たちに挨拶をおくっているようです。
【大切な人々】
 この挨拶からも分かるように、ローマの教会にはパウロにとって大切な人々がたくさんいたようです。そして、内容を見ていくなら、ただの知り合いではなく、共に苦労したり、喜んだりした仲間がたくさんいたようです。
 そこにいた人々とは、名前が挙げられているだけで25人以上の人々がいました。そしてこれらの人々は、聖書の他の箇所には、ほとんど登場しない、ある意味では、知られていない、名もない人たちばかりなのです。
 それでも3節に出てくるプリスカとアキラについては、先週もお話したように、使徒言行録18章に登場するアキラとプリスキラの夫婦です。使徒言行録ではプリスキラとなっていますが、パウロの手紙ではプリスカとなっています。なぜかはよく解りませんが、名前の表記は少し難しいことがあるので、これ以上は詮索せずに進めたいと思います。とにかく、この二人はパウロの活動を積極的に助けた夫婦でした。そして、先週、この手紙が書かれた時、この二人もコリントにいたようなことを言ってしまいましたが、それは間違いで、この手紙が書かれた時には、すでにローマにいたようです。
 次にはエパイネト、マリヤ、アンドロニコ、ユニアスと続いていきますが、この後の人々はどのような人物なのか分かりません。名前から分かることは女性か男性かということ、また、異邦人かユダヤ人かということ、さらには解放奴隷か自由人かということも名前から推測することが出来るようです。
 さらに、ここに名前のあげられている人たちの中には、少し説明の付け加えられている人たちもいます。そして、彼らに共通することがあります。それは、それぞれが生活をかけてキリストに従うゆえに、労苦を共にしていたということなのです。
 当時のエルサレム教会とか他の教会については、ほとんど資料がありませんが、聖書の様々な記述から推測するなら、エルサレムを中心としたユダヤ人中心の教会と異邦人を中心としたローマの教会には、大きな違いがあったようです。
 それがこの箇所に記されていることであり、多種多様な人種、職業、社会的背景、性別の人々がローマの教会をかたち作っていたということなのです。この事実こそがローマの教会を表現しているのです。
【知ること】
 25人以上の人々に挨拶をおくっていますが、パウロはローマの教会には、まだ行ったことがないと語ります。もちろん、百聞は一見にしかずと言いますから、行かないより行ったほうがよいと思うのですが、行ったことが無いという事と知らないという事は別の事柄だと思わされます。
 そもそも、教会とは、イエスを救い主と告白する者の共同体ですから、教会に行ったことがあるとか、ないとか言う時、教会という建物、教会堂に行ったという事と教会に行ったことがあるという事を一緒にしてはいけないと思います。
 以前、結婚式場で結婚式の司式のアルバイトをしていた時、少しの時間ですが、新郎新婦と話をする時間がありました。そこで「教会に行ったことがありますか」と質問すると、半分以上の人が「行ったことはない」と答えますが、「行ったことがある」と答える人の中でも半分くらいは「友人の結婚式で行った」とか「観光で函館や長崎の教会に行った」というものでした。
 多くの人は建物としての教会をイメージしますが、本来教会とは、キリストを信じる信仰者の共同体であって、教会に行ったことがあるというのは、礼拝などの集会に参加したことがあるかどうかという事だと思います。
 さらに、この箇所では教会に行ったか、行っていないかということより、その教会を知っているのか、知らないのかという事の方がより大切な事柄ではないかと思わされるのです。
 パウロはローマの教会には行ったことがありません。しかし、ローマの教会を立てあげている一人ひとりを知っている。もちろん全員知っているわけではありませんが、ここに名前をあげることのできるくらいの人とは面識があったり、面識がなくても、共通の友人がいたりして、その人々を知っていたのです、だからこそ、この手紙を書き送ろうと思ったのではないでしょうか。
 その教会の集まりに参加していなくても、そこに集まる一人ひとりを知るということが、その教会を知るということにつながるのです。
【ローマの仲間へ】
 そういう意味で、ローマの教会はパウロにとって、行った事はないけれど、知っている教会だったと思うのです。そして、そういう流れの中でこの手紙が書かれているのです。
 だから、この手紙は不特定多数の人に宛てて書かれたものではありません。ここに名前のあげられている一人ひとりをイメージし、顔を思い浮かべながら書かれたはずです。
 ですから、ここに書かれている事柄は、抽象的な事柄ではなく、具体的な事柄が書かれているのです。
 2021年10月にローマ人への手紙を読み始めた時に、「ローマ人への手紙と聞いて「難しい」とか「教理」という言葉を思い浮かべる人が多いと思いますが、本来これは手紙です。それも、まだ会った事のないローマのクリスチャンへあてた手紙なのです。難解な教理を伝えようとしたとは考えにくいのです。この手紙の基本は、ローマを拠点として、さらに西方へと伝道の業を進めたいというパウロの情熱なのです」というようなことを言いました。
 その時には「まだ会った事のないローマのクリスチャン」と言いましたが、ここまで読み進んで分かったのは、まだ会った事のない人もいましたが、すでに出会って、知っている人もいたということです。
 そして、そんな人々に向かって難解な、抽象的な文書を送るわけがありません。それは、多くの聖書学者たちもそのように受け止めているのです。
 それなのに、なぜ「難しい」と思われるようになったのでしょうか。きっと私たちの読み方に問題があるのです。ですから、視点を変えて、真剣に福音に照らし合わせながら読み直すことが必要なのです。
 徹底的に信仰のみという立場に立たなければならないのです。行いは信仰に立つとき、結果として後からついてくるのです。現実との葛藤の中で、難しいことだと理解してしまいます。しかし、私たちには決断が必要なのです。

祈 り
讃 美   新生620 主とともに歩まん
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏