前 奏
招 詞   箴言15章29節
讃 美   新生 13 ほめまつれ 主なる神
開会の祈り
讃 美   新生222 罪なるその身に
主の祈り
讃 美   新生229 十字架のもとは
聖 書   ローマの信徒への手紙16章17~20節
                      (新共同訳聖書 新約P298)
宣 教   「上辺だけの言葉」   宣教者:富田愛世牧師
【警戒しなさい】
 ローマの信徒への手紙を読み続けて、いよいよ来週で最後になります。そして、締めくくりの挨拶に入ってから、今日で5回目になります。前回、お読みした16章1節から16節まででは25人以上の人たちに向かって「よろしく」と挨拶をおくりました。
 ローマにいて、この手紙を読んだ人たちは、手紙の最後の部分で自分の名前が読まれ、パウロからの「よろしく」という挨拶を聞いた時、きっと嬉しかったのではないかと想像します。そして、挨拶を受けた、その人だけではなく、ローマの教会全体に和やかな雰囲気が漂っていたのではないかと想像するのです。
 ところが、今日の箇所を読むと、少し様子が違うような気がしませんか。16節までの和やかな雰囲気とは、明らかに違っています。そして、ある聖書学者たちは、この箇所はローマの信徒への手紙に、元々書かれていたのではなく、後から、誰かによって書き足されたものではないかと考えているようです。
 最初から書かれたものか、後から書かれたものかは、ここでは大きな問題ではありません。それよりも、キリスト教会の中には、最初から偽りの教えも入り込んでいたという事です。そして、パウロはそれに対して、警告を発しているように感じます。
 現に17節で「あなたがたに勧めます」と語りますが、単純に進めているだけではなく、その後に書かれている内容から考えるならば「警告」と言い替えても構わないと思います。
 当時の教会の中に入り込んだ偽りの教え、つまり、異端的な信仰とはどのようなものだったのか。具体的な説明はありませんから、分かりませんが、神の義や律法からの自由という点について、異端的な信仰を持ち込もうとした可能性が高いと思われます。
【うまい言葉】
 異端的な教えが教会に入ってくるということを客観的に聞くと、そんなことが本当に起こるのだろうかと疑問を持つ方がいると思います。今、私たちの周りにあるキリスト教系の異端と呼ばれる宗教には、話題となっている旧統一協会やエホバの証人、モルモン教などがあります。そして、それらの教えは伝統的なキリスト教とは違いますから、初めから受け入れないと思うかもしれません。
 しかし、異端的な教えは、当時の巡回伝道者によってもたらされた可能性が高いようです。パウロ自身も、アンティオキアの教会を拠点として、3回の伝道旅行が記録されていますから、巡回伝道者の一人だったと思います。その他にもアポロという巡回伝道者の名前が聖書には残されています。
 使徒言行録18章24節を見ると「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。」と書かれています。パウロという人は手紙などの著述については優れた人でしたが、自分でも語るように、話すことはあまり得意ではなかったようです。それに比べてアポロという人は「雄弁家」だと紹介されています。
 想像ですが、巡回伝道者がどれくらいいたのか、分かりませんが、その中の多くの人は雄弁家だったのだろうと思います。彼らは話がうまく、人々の心を煽ることが得意だったのです。
 本来、伝道者はキリストに仕える者でしたが、彼らは18節に書かれているように「わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている」とあります。教会を惑わすような巡回伝道者たちは、キリストを証しするのではなく、自己満足のためであったり、自己顕示欲を満たすためであったり、承認欲求のような自分の欲望を満たすために、キリストの福音を利用していたのです。
 「うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです」とあるように、教会という共同体の中では、無防備になっているクリスチャンは格好の餌食になってしまうのです。
【善にさとく、悪に疎い】
 パウロは、そのような偽の巡回伝道者に対して警戒しなさいと語った後、19節にはローマ教会のクリスチャンへの称賛の言葉を語り始めるのです。そこには「あなたがたの従順は皆に知られています。」とあります。
 従順であるゆえに偽の巡回伝道者にそそのかされてしまうという事もあったのだろうと思います。しかし、従順であるという事自体が悪いわけではありません。ただ、イエスも語るように「蛇のように賢く、鳩のように素直に」なるという事は、とても大切なことだと思います。
 そして、ここでは「鳩のような素直さ」が認められているわけですから、その次に来るのは「蛇のような賢さ」が求められているのではないでしょうか。
 パウロが「あなたがたの従順は皆に知られています」と語るように、ローマの教会にいるクリスチャンたちの評判はユダヤから小アジアを通って、ギリシア地方にある教会にまで知れ渡っていたようです。
 さらに、「善にさとく、悪には疎くあることを望みます」と語るように、ローマのクリスチャンたちは正しい知恵を持っているというのです。正しい知恵とは「主を畏れることは知恵の初め」と語る箴言1章7節にあるように神を知ることなのです。
 そして、神を知ることだけでなく、ここでは「悪には疎くある」ように勧めています。悪に疎いというのは、悪について何も知らないままでいるという事です。
 多くの場合、私たちは知るべきことを知らず、知らないでも構わないことを知ろうとしたり、知ってしまうのではないでしょうか。悪については知らないでいて構わないのです。
【来るべき平和】
 そして20節からは神の平和について語ります。神の平和という事については15章33節にも同じ言葉が使われています。もう一度読んでみたいと思います。「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」と書かれています。
 ローマ訪問の計画を語った後、ローマに行く前にエルサレムに行かなければならないことを語り、エルサレムに行くことが、パウロにとっては危険な道だと、だから、そのために熱心に私のために祈ってほしいという事を書いています。その締めくくりとして、今読んだ言葉を書いているのです。
 つまり神が共にいてくれるように、神の臨在があるように祈ってほしいと、お願いしているのです。神が共にいてくださるという事が、平和の源なのだと語るのです。
 それに対して、この16章20節では「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」と語っているのです。
 「足の下で打ち砕かれる」などと言うように、少し物騒な表現になっていますが、平和の神であるならば、サタンとの関係においても、平和的な解決方法をとったとしても良いのではないかと思います。
 しかし、そんなのんきなことは言っていられないというのです。それがサタンとの関係なのです。サタンの働きというものは甘く見てはいけないものなのだ、それくらいサタンの働きは危険なものなのだと語るのです。
 サタンはどこにいるのでしょうか。ここやあそこにいるという事ではありません、サタンはいつも私たちの心の中に潜んでいるのです。そして、私たちを神から遠ざけようとする、そんな働きがサタンなのです。
 しかし、従順に従い続ける者に対して、神はいつも共にいてくださると約束されるのです。主イエスの恵みは「あなたがたと共にある」というのです。

祈 り
讃 美   新生583 イエスにある勝利
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏