前 奏
招 詞   申命記29章28節
讃 美   新生 13 ほめまつれ 主なる神
開会の祈り
讃 美   新生226 罪なくきよき
主の祈り
讃 美   新生176 主は豊かであったのに
聖 書   ローマの信徒への手紙16章21~27節
                    (新共同訳聖書 新約P298)
宣 教   「明らかにされる時」   宣教者:富田愛世牧師
【21~27節について】
 ローマの信徒への手紙を読み続けて、約1年半が経ち、いよいよ今日が最後になります。ところが、この最後の部分がまた、ややこしい構成というか、配列になっていまして、初めにそのあたりを説明してから、内容に入りたいと考えています。
 21節から23節までは16章の1節から16節までの続きのように感じるのではないかと思います。前回の17節から20節は多くの聖書学者は後代の誰かによって付け加えられたものではないかと考えられていると説明しましたが、その通りだとするならば、16章は1節から16節までを読み、17節から20節までをとばして、21節から23節までを続きとして読むとすっきりすると思うのです。
 そして、皆さんのお手元にある新共同訳聖書を見ると、24節が抜けていると思います。24節はどこに行ったのかなと探してみると、一番最後の所に「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」と書かれた後に24節として「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように」と書かれています。
 どういうことかというと、新約聖書は元々ギリシア語で書かれていました。そして、今から二千年前に書かれたものですから、今のようなコピー機などありませんので、一つの文書を誰かに見せるためには書き写さなければなりませんでした。そのようにして、多くの写本と呼ばれる聖書が残されています。
 しかし、それも完全な形で残されているのではなく、断片的に残されているので、研究者たちが断片を組み合わせて、原本に近いだろうと思われるものを作っているのです。それが「底本」と呼ばれるものです。その「底本」を各国語に翻訳しているのです。
 その「底本」には書かれていないけれど、多くの断片として残されている写本に書かれている言葉が24節の言葉だという事なのです。
 そして、25節から27節はパウロの文体とは明らかに違うので、後から付け加えられたものだと考えられています。しかし、前回もお話したように、パウロの筆によるものでなかったとしても、内容的には間違っていないので、そのまま残されているのです。このような学術的な側面を踏まえたうえで21節から27節が何を語ろうとしているのかを見ていきたいと思います。
【挨拶の続き】
 21節から23節は、この手紙を書いている時、そこにいた人々からの挨拶であり、その人々の紹介になっています。
 まず21節では四人の名前が挙げられています。最初に出てくるのがテモテという名前ですが、テモテはパウロの協力者だと書かれています。また、テモテへの手紙という文書が新約聖書の中にありますが、これはパウロから、ここに登場するテモテへ宛てて書かれた手紙だと考えられています。
 他の三人については、他の手紙や文書に記録が残っていないので、よく分かりませんが「また同胞の」と書かれているので、パウロと同じユダヤ人クリスチャンだと思われます。ただ、ルキオという名前については使徒言行録13章1節に「キレネ人のルキオ」という名前が出てくるのでアンティオキアの教会にいた人なのかもしれません。しかし、ここでは「同胞」と紹介しているので、同一人物だと言い切ることはできません。
 そして、22節を見ると、この手紙は口述筆記だったという事が分かります。なぜパウロは自分で書かなかったのかと思われるかもしれませんが、当時のローマ・ギリシア文化の中では、口述筆記するという事が慣習として普通の事だったようです。書記役のような人がいて、その人に書いてもらい、最後に自分の名前だけ自筆でサインしていたようです。
 通常は書記役の人が自分の名前を名乗るという事はなかったようですが、ここでは自分の名前を明かしています。それは、このテルティオという人の知人がローマの教会にたくさんいたからではないかと想像します。
 23節では、ガイオという裕福な異邦人クリスチャンの名前が出てきますが、この人はコリントの信徒への手紙一1章14節に書かれている「ガイオ」と同じ人物ではないかと考えられています。パウロによってバプテスマを授けられた、数少ない人の一人だという事で、パウロと特別な関係にあったのかもしれません。
 そして、市の経理係エラストと兄弟のクアルトという名前が出てきますが、この二人も他には記録が残っていないので、どのような人物か分かりませんが、市の経理係という事なので、ある程度、地位の高い人だったのではないかと思われます。
 このような多様な人々がコリントの教会にもいて、ローマの教会に挨拶をおくっているのですから、これからローマの教会とも交流を重ねていきたいという願いが込められているのだと思います。
【明らかにされる時】
 25節からは、パウロ以外の人によって、後から付け加えられたのではないかと考えられていますが、いたずらに付け加えられたのではないと思うのです。文体などはパウロのものとは違うかもしれません。しかし、書かれている内容については間違ったことが書かれているわけではありません。
 今日のタイトルは「明らかにされる時」としましたが、何が明らかにされるのでしょうか。それは、神の救いの業が明らかにされるという事なのです。
 25節をもう一度読んでみたいと思います。「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」と書かれています。
 私たちを強くすることが出来る、私たちに力を与えてくれるもの。それは福音なのです。イエスが語られた福音によって、私たちは強くされるのです。しかし、この福音は世々にわたって隠されていたというのです。何が福音を隠していたのでしょうか。
 イエス以前の時代は、ユダヤ教というベールの奥に神の存在は隠されていました。ユダヤ教が悪いのではなく、間違った選民意識によって、ユダヤ人以外は救われないと思い込んでしまったのです。
 ですから、ユダヤ人としてのアイデンティティを守るために、割礼や律法の厳守という事にばかり気をとられ、それらがなぜ与えられたのか、それらの背景にどのような神の意図があるのか、そういったことを考えず、表面的な決まりごとに縛られていたのです。
 しかし、イエスの語った福音は、すべての人に向けられていました。そこにはユダヤ人も異邦人もなく、奴隷も自由人も、男も女も、何の区別もありませんでした。
 救いに条件などなかったのです。もし救いに条件を付ける人や教会があったとするならば、それはもはやイエスの宣教の業を邪魔するものでしかないのです。
【キリストの証人】
 26節を見ると「その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」とあります。
 イエスの語られた、この福音は、決して新しい教えではありません。昔から続いていたものなのです。つまり、預言者たちによって語られていたのです。神は預言者を通してイスラエルに語り続けていました。しかし、イスラエルは預言者が語る神のことばに耳を貸そうとしなかったのです。
 反対に神のことばを語る預言者たちを殺してしまいました。イエスはルカによる福音書20章9節以下で「ぶどう園と農夫のたとえ」として、そのことを語られています。そして、イエスの十字架の死と復活によって、明らかになったのです。
 神の計画は「異邦人に知られるようになりました」とあるように、異邦人にも福音が伝えられたことを繰り返し語っているのです。異邦人とは誰なのでしょうか。ユダヤ人以外の人々、つまり全人類を表しているのです。
 当時のパウロにとっては、ローマよりも西にある地域に住む人々、遠くイスパニアに住む人々を意識していたと思います。つまり、全世界の人々がパウロの視野に入っていたのではないでしょうか。
 私たちは聖書を読む時、自分をどこにおいて読んでいるでしょうか。今の箇所を読む時、私たちは異邦人と語られている箇所に自分を当てはめなければなりません。異邦人とは、誰か他の人ではなく、私たちの事なのです。
 ユダヤから遥かかなた、東のはずれにある日本に住む私たちを含めた、地球上に住むすべての人々へと拡げられているのです。二千年前に書かれた、この手紙を二千年後の私たちが読んでいるという事が、イエスの福音はいまも生きて働いていることを証ししているのです。そして、私たちは、その証人なのです。

祈 り
讃 美   新生554 イエスに導かれ
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏