前 奏
招 詞   出エジプト記4章11~12節
讃 美   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
讃 美   新生 29 父なるみ神の
主の祈り
讃 美   新生287 主イエスこそわが生命
聖 書   フィリピの信徒への手紙1章12~18節
                      (新共同訳聖書 新約P361)
宣 教   「不純な動機でも」    宣教者:富田愛世牧師
【ピンチがチャンスに】
 フィリピの手紙1章は11節までが挨拶の部分で、この12節からが本題になっています。本題に入る前にもう一度、確認しておきたいことがあります。それは、この手紙は獄中書簡と呼ばれ、どこかの牢獄で書かれたものだということです。
 伝統的な解釈ではローマの牢獄だということですが、使徒言行録28章30節を見ると「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」と書かれているのです。
 つまりローマだったとするならば、牢獄に監禁されていたのではなく、一般の家に住んで軟禁状態だったということが分かるのです。それならば、なぜ13節にあるように「わたしが監禁されているのは」と書いたのでしょうか。
 実際には、どこで書かれたのかは分かりません。ですから牢獄に入っていたのかもしれませんし、一般の家に住んでいたけれど、軟禁状態で、いつも誰かに監視されていたという事なのかもしれません。
 いずれにしろ、どこで書かれたのかということは問題にせず、どこか確定はできないけれど、どこかの牢獄で、自由を奪われ、監視されているという状況の中で、この手紙が書かれ、そのことがパウロにとっては、必ずしも否定的な事ではなかったという点に注目していきたいと思っています。
 一般的な考えでは監禁状態にあるということは、危機的な状況ですが、パウロは12節で「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と語っています。
 さらに13節で「わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」と語り、今まで福音を伝えにくかった人々、特にローマの兵営にいる兵士たちを中心とした人々に伝えるチャンスとなったと告白しているのです。
【宣べ伝える動機1】
 このようなパウロの状況を見てキリストを伝えるように導かれた人々もいたようです。14節を見ると「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」と書かれています。
 ただ、私は個人的にこの言葉を理解しにくいと感じています。なぜなら、投獄される仲間を見たら恐ろしくなると思うのです。世の権力者たちは「見せしめ」として中心的な人を捕えて、色々な運動を押さえつけてきました。イエスの十字架も、ユダヤの宗教指導者たちにとっては、宗教改革者としてのイエスを「見せしめ」として殺したわけです。しかし、その時もペンテコステの出来事によって、権力者たちの思惑通りにはいかず、かえって弟子たちは力づけられました。この箇所もきっと同じことが起こったのだろうと思います。
 聖霊の出来事、神のなさる出来事について、私たちはイメージとして、純粋なもので、絶対的な正しさがあるように思います。しかし、現実はそうとばかりは言えないようで、その中には「ねたみと争い」の思いからキリストを伝える人たちもいたと書かれています。
 妬みとは、パウロと同じようにキリストを伝える伝道者が他にもいたようなのですが、その中には、有名なパウロを妬ましく思う人がいたということだと思います。そういう人たちは、パウロが牢獄に入っているうちに、積極的に働いて有名になろうとしたのではないかと思います。
 また、争いといわれることを突き詰めて考えるなら、党派心といわれるものだと思います。パウロはコリントの信徒への手紙第一でコリントの教会には「パウロ派、アポロ派、ペトロ派、キリスト派」と、いろいろなグループがあったことを記しています。パウロ派以外の人たちは、パウロが投獄されたことを聞いて、今がチャンスとばかりに一生懸命伝道したのかもしれません。
 どちらにしろ「自分が」という思いによって、つまり人間の自己顕示欲的な思いというような、不純な動機によってキリストを宣べ伝える人々が現れたということなのです。昔も今も、また、教会であろうが、一般社会であろうが、これが現実だということです。
【宣べ伝える動機2】
 しかし、そういう不純な動機だけでなく、反対にパウロが囚われの身になっていることに対して「善意」と「愛の動機」からキリストを宣べ伝えようとする人たちもいたのです。何となく、そういう人たちがいてくれて安心するのではないでしょうか。
 でも、私はちょっとひねくれているので、単純にこの人たちの中にも党派心的なものがあり、この人たちは「パウロ派」の人たちだったのかななんて、思ったりします。しかし、ここでは、ひねくれて考えないで「善意と愛の動機」からキリストを宣べ伝えようとする人がいたという、聖書の語る事実を受け止めたいと思います。
 この人たちはパウロが囚われている理由が「福音を弁明するため」だということを知っていました。これだけ読んでも理解しにくいと思うのですが、そもそも、なぜパウロが捕えられたのかを思い出さなければなりません。
 パウロが捕えられたのは、キリストの福音を人々に伝えていたことを、不愉快に感じたユダヤの宗教指導者たちがパウロを殺そうと計画したのが始まりです。
 殺そうとしたけれど、さすがに宗教者たちですから、非合法な方法ではなく、形だけでも、合法的な方法をとろうとして、裁判にかけ死刑にしようとしたのです。しかし、パウロはローマの市民権を持っていたので、ユダヤ人だけで勝手に裁判することが出来なかったのです。パウロはそのことを訴えて、皇帝に直訴しローマに連れて行かれたと書かれています。
 ただし、この手紙を書いたのはローマかどうかわかりませんので、使徒言行録の記事と同じではないかもしれませんが、似たような出来事、つまりユダヤの宗教指導者たちに訴えられ投獄されるという出来事があったと思います。
 だから、キリストの信仰を持つ者たちは、その善意とキリストに対する愛によって動かされていったのです。
【どちらも喜び】
 そして、最後の18節を読むと「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と書かれています。
 ここで大切な事は、動機が純粋であろうが、不純であろうが、どちらもその結果がパウロの目的と一致しているならば、それを喜ぶということです。しかし、その動機が純粋か不純かという判断は誰がするのでしょうか。他人が判断するなら、本当の動機をどうやって知るのでしょうか。尋問するのでしょうか。でも、そこで本当のことが語られるかは誰にもわかりません。もしかすると、その場を取り繕う、嘘の証言をし続けるかもしれません。それを鵜呑みにして、純粋と決めてしまう可能性は否定できないのです。
 前回もお話ししたように、人間が絶対的な基準を決めるのはとても危険な事です。それが聖書や信仰であったとしても、それを解釈し用いるのは人間ですから、必ず間違いが起こるのです。
 パウロは絶対的な基準や反対に人間が不完全な知恵や常識といった曖昧な基準で判断する事よりも、目的を明確にして、それに沿ったことかどうかを判断基準にしました。それはキリストの福音が宣べ伝えられるという目的なのです。
 その結果、純粋な動機でも、不純な動機でも、どちらもキリストの福音が宣べ伝えられているのならば、どちらも喜ぶことだと判断したのです。
 不純な動機の中にはパウロのことを否定するようなことも含まれていたと思います。しかし、パウロは自分が否定されたとしても、目的が達成されることを喜びました。教会の中でよく聞かれる言葉にするなら委ねたということです。どちらも喜ぶというのは、神に委ねますということです。
 残念なことですが、教会の中で神に委ねるという言葉を聞く時、何もしないことを神に委ねるという人がいます。しかし、神に委ねるということはそういう事ではありません。自分にできる限りのことをしたうえで、結果を神に委ねるということなのです。
 そして、この箇所にあるようにキリストの福音が宣べ伝えられているなら、その動機が純粋であろうが、不純であろうが、それを喜ぶという、この姿勢にこそ伝道者としての姿を見ることが出来るのです。

祈 り
讃 美   新生632 福音のために
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏
報 告