前 奏
招 詞   ヨブ記36章16節
讃 美   新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
讃 美   新生 16 み栄あれ 愛の神
主の祈り
讃 美   新生445 主よみ手もて
聖 書   フィリピの信徒への手紙1章27~30節
                   (新共同訳聖書 新約P362)
宣 教   「苦しみも恵み?」    宣教者:富田愛世牧師
【ふさわしい生活】
 今日は「苦しみも恵み?」というタイトルを付けましたが、結論から言うならば、苦しみさえも恵みに変えられるという逆説的な発想、また価値観や発想の転換ということが大きなテーマになると思います。そして、その根拠は福音にあるということなのです。
 前回の1章21節で「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益」と語ったパウロは、今日の箇所で「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と続けます。「ひたすら」とは、ただそのことだけに思いを集中していくということで、そのこととはキリストの福音にふさわしい生活なのです。
 ここで一つ気になる言葉があるのですが、それは「ふさわしい」という言葉です。よく主の晩餐式の時にも議論されるのですが、主の晩餐式の式文に「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は」というコリントの信徒への手紙の聖句が引用されています。そして、この言葉はよく誤解されています。
 その誤解というのは、主の晩餐に与るには、それにふさわしいような正しさ、義が求められるという誤解です。コリントの信徒への手紙二の11章27節で語られていることは、裕福な者たちが貧しい者たちの事を配慮せずに飲み食いすることに対して語られているわけです。
 つまり、その食卓に与ることが出来る者と与れない者がいるという現実に対しての問いかけなのです。極端なことを言えば、食卓に与ることの出来ない者がいるのに、食卓についている者がいるとするならば、あなたたちこそが「ふさわしくない者」であるという事なのです。
 ここでも正しさとか誠実さといった観念的なことではなく、もっと具体的な人の行動を意味しています。
 事実、イエスは福音書の中で理想論を語っていたのではなく、福音を生きておられたのです。福音を生きるというより、実践していた、実行していたと言った方が分かりやすい表現かもしれませんが、強いられる何ものもなく、イエスは全くの自然体だったので福音を生きていたという言い方のほうがふさわしいと思うのです。
 もちろん簡単に出来ることではありません。
【一つの霊】
 簡単に出来ることではないというのは、人の意志によって、そうしようとするならば簡単ではないということです。キリスト教は宗教学の分類方法の中で「啓示」の宗教と言われていますが、この啓示とは、上から、つまり神から示されるということです。ビビッと来ることがあるというのです。少し宗教くさい言い方になってしまいますが、福音の真理は上からの啓示、つまり聖霊の働きによらなければ理解できません。
 キリストの福音とは、イエスが福音書の中で語っておられ、そのように生きておられたすべてだと私は理解しています。有名なところでは、山上の説教と言われるものがあり、その中で「貧しい者が幸いだ」と語られています。現代のような経済至上主義の社会では受け入れられないことです。また、「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」とも語られました。これについては古代から現代にいたるまで、報復という発想を持つ人類には理解できない教えだと思います。
 色々な宗教の誘い文句に「何々を信じれば幸せになれます」「こんな病気が治りました」「貧しい生活だったのに、こんなに裕福になりました」といった、いわゆる御利益、現生利益的な誘い文句を並べ立てるところがたくさんあります。それはそれで、少し胡散臭い面もあるのですが、とても魅力のある誘い文句だと思います。そして、人がそれを求めようとするのは当然のことで、それを責めることはできません。
 それに対して、聖書はキリストの福音にふさわしい生活を送ろうとするなら、自分にとって不都合な事柄が起こるようになりますよ、と言っているわけです。思い通りにしてくれる神を求めているかもしれないけれど、思い通りにはしてくれませんよと語るのです。
 実際にパウロはフィリピに行って、あなた方に会いたいと願っていますが、その願いが聞き入れられるかどうか分からない。その願いが聞き入れられなくても、目的さえブレなければ、そのことの方が大切だと語ります。
 その目的とは、キリストの福音にふさわしい生活ということなのです。
【信仰の戦い】
 キリストの福音にふさわしい生活を送ろうとすれば、不都合な事柄が起こるだけではなく、戦いがあり、反対者が現れるとエスカレートしていきます。ここまで行くとキリストの福音を信じることは、自分には無理だ、信じないで生活する方が楽しく過ごせそうだと思うのではないでしょうか。
 しかし、そこにはやはり福音を正しく理解していないということがあるのです。ここでパウロが戦う相手や反対者として想定しているのは、律法主義や偶像崇拝ということなのです。
 先ほど、福音とは貧しい者が幸いだとか右の頬を打たれたら左の頬を出せと言ったような難しいことだと言いましたが、それを聞いて皆さんは自分をどの立場に置いていたでしょうか。もしかすると、当事者ではなく第三者として見ていたのではないでしょうか。あるいは頬を打たれた者の立場に立っていたのではないでしょうか。
 経済的な事柄だけに留まらない貧しさを意識するなら、私たちは自分の貧しさを理解できると思います。そして、貧しさから抜け出せと言うのではなく、貧しいあなたが幸いだと声をかけてくれることに気付いた時、どう感じるでしょうか。
 頬を打たれたのではなく、誰かの頬を、故意か、間違いかに関わらず、自分が殴ってしまったというように考えるなら、どう感じるでしょうか。
 パウロはその手紙の中で、徹底的に律法主義者たちと戦い続けています。様々な事を命じたり、注意したり、禁じたりする時、その相手は律法主義なのです。律法主義や偶像崇拝というのは、神を崇めるふりをしていますが、本質的には神を神として崇めず、自分を神にしてしまうことなのです。だからそのような力とは戦わなければならないのです。
 福音に立つとは、そのような反対者との戦いなのですが、ある意味では意識的な「戦っているぞ」というものではなく、その時こそ聖霊が上から働かれ、その助けを受けているというのが事実なのです。
【信じることと苦しむこと】
 その結果として、信じることだけでなく、苦しむことも恵みとして与えられるのだと語っているのです。
 ただ、何となく観念的には理解できたような感じがするけれど、具体的な苦しみの中にある時、苦しみを恵みと言えるかは、はなはだ疑問だと思います。「牧師、お前は本当の苦しみを味わっていないから、そんなことが言えるのだ」と言われたら、何も答えることが出来ません。「確かにその通りですね」としか、私には言えません。
 大きな苦しみの中にいる人にとって、苦しみは恵みではなく、苦しみは苦しみでしかないのかもしれません。
 しかし、こうして語っている私には何の権威もありませんが、聖書はそうではないと語るのです。聖書の言葉を受け止めるならば、キリストの福音という視点に立って見る時、苦しみに対する見方が変わってくるのではないでしょうか。
 苦しみは良くないもの、否定的な事だと思っているだけでは何も解決はしないと思います。ただ極論に走ると苦しまなければ人間は成長しないというような考え方になる危険性もあるので注意しなければなりません。苦しみ「が」必要なのではなく、苦しみも時には必要だということなのです。
 必要な時に与えられる苦しみには、それに耐える力も与えられるのです。コリントの信徒への手紙一10章13節には「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」と書かれています。また、ローマの信徒への手紙5章3~4節には苦しみが与えられる一つの意味が書かれています。そこには「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と書かれています。

祈 り
讃 美   新生327 ゆく手を守る永久の君よ
主の晩餐  配餐 早川達郎兄、柴山温行兄
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏