前 奏
招 詞   ヨハネによる福音書1章9節
讃 美   新生  8 主の呼びかけに
開会の祈り
讃 美   新生153 エッサイの根より生い出でたる
主の祈り
讃 美   新生176 主は豊かであったのに
聖 書   イザヤ書9章1~6節
                 (新共同訳聖書 旧約P1073)
宣 教   「大いなる光を見る」    宣教者:富田愛世牧師
【メシア預言】
 先週からアドベントに入り、主日礼拝で読む聖書箇所も、聖書教育と同じ箇所にしました。先週から始まったアドベントの期間は24日まで続きますが、24日の礼拝はクリスマス礼拝と位置付けますので、来週までの3回にわたってイザヤ書からメシア預言を読むことにしています。
 今日はイザヤ書9章1~6節を読みましたが、ここに書かれている預言はメシア預言です。メシア預言が語られる背景は、たいていの場合、国家存亡の危機に直面した時に語られることが多いようです。
 今日の箇所の背景については、先週お話したところと同じですが、もう一度、お話していきたいと思います。
 当時の中近東地域には、アッシリアという強大な国が興りました。アッシリアは強大な軍事力に頼って、近隣諸国を侵略しながら領土を拡大し、捕虜を労働力として利用して、経済的に豊かな国として栄えていました。
 近隣諸国は、アッシリアという大国の脅威の前に、不安と恐れの中にいたようです。ユダの兄弟国であった北イスラエルはアラムと同盟を結び、アッシリアの脅威に対抗しようとしました。そして、北イスラエル・アラム同盟は南ユダにも同盟に加わるように、力をもって迫ってきました。ほとんど脅迫と言ってもよいような仕方で迫ってきたので、当時の南ユダの王であるアハズは悩みましたが、その結果、アッシリアに助けを求めたのです。
 このような背景の中でイザヤは南ユダのアハズ王に対して人の力に頼るのではなく、唯一の真の神に頼らなければならないと告げるのです。しかし、アハズの心は不安と恐怖に囚われていたので、目の前に迫ってくる脅威しか見ることができず、イザヤの預言を無視してしまうのです。
【闇の中を歩む民】
 そのような背景の中で、この預言は語られたのです。1節を見ると「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」と書かれています。この闇という表現はイスラエルの民にとっては、まったく光の入らない世界を意味しているという事です。
 私たち、特に現代社会に生きる日本人にとっては、光の全くない世界というものは、想像しにくい世界だと思います。しかし、当時の人々にとっては、新月の夜、雲に覆われたりすると、本当にまったく光のない闇夜というものが存在したようです。そのような恐怖を経験しているので、ここで語られる闇というのは、この世のものではなく、あの世、黄泉の世界を意味しているのです。
 現実の暗闇の恐怖と同じように、当時の人々にとっては戦争のうわさや様々な混乱が目の前にあったわけですから、何をしてよいのか分からない、逃げ出したいけれど、どこに行けばよいのか分からない、そんな状態だったのではないかと思うのです。
 今、現実にガザに住む人々は、同じような経験をしているのではないかと思うのです。北部地域はイスラエルからの攻撃があるから南部に避難しなさいと言われていますが、南部に行ったところで爆撃がなくなるわけではありません。人々はどこへ逃げればよいのか分からない、不安と恐れの中にいるのです。
 そんな闇の中にいる民に向かって「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と続くのです。どうしてよいのか分からない、まったくの闇の中にいるにもかかわらず、そこに光が輝くというのですから、それは人知をはるかに超えた、神のなせる業でしかないのです。そのような恐怖と不安に囚われた民に希望の光が与えられるというのですから、民の喜びというものは、どれほど大きなものだったのでしょうか。
 さらに預言は、兵士の靴や血にまみれた軍服は焼き尽くされると続きます。戦いや争いの終わりを告げているのです。そして、新しい王、支配者が与えられるというのです。
 その新しい王について、預言者は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれると告げるのです。そして、このなかで中心的なテーマとされるのが「平和」ということなのです。
【イエスと平和】
 平和という言葉を私たちはよく耳にしますし、平和が嫌いだという人は、この中には一人もいないと思います。しかし、この平和とはいったいどのようなものなのでしょうか。もちろん形などありませんから、概念としてとても難しいものだと思うのです。
 ヘブライ語では皆さんよくご存知のシャロームという言葉です。これは平和とも、平安とも訳されています。それでは平和と平安の違いとは何でしょうか。一般的には平安というのは、人の内面に表れるものを意味します。そして平和というのは、内面を含めて、さらに外へと広がりを持っている概念なのです。
 現代の日本社会では、平和という概念があまり発達していません。平和とは何かと尋ねるなら、平安・平穏・争いのない状態。家庭内・仲間・共同体・地域・職場・民族など、それぞれのグループの中に葛藤がないこと。いわゆる「世の平和」です。
 そのためには、勝手なことを言わないで、我慢し、協調して秩序を維持して行くことが重要とされます。小異を捨てて大同につく、和を以て尊しとなす、などの協調精神です。特に弱者と少数者は大多数の為に、我慢することが求められます。少数者より「最大多数の最大幸福」は、民主主義を掲げる政治家のモットーです。
 しかし、平和という概念はもっと大きな、広がりを持ったものなのです。聖書が語るシャロームは、その契約の民イスラエル中に、傷ついた部分のないこと。正義が行われていること。これが神のシャロームです。ヘブライ語聖書では「正義が造り出すものは平和」であり、やもめ・孤児・寄留民などに対する神の配慮が語られています。虐げられる者がいるかぎり、平和な状態ではないのです。
 そして「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」として、この世に誕生したイエスは、自分のグループ内だけの平和ではなく、グループを超えて、さらには敵対する者に対しても、シャロームの状態にあることを望まれたのです。これが「キリストの平和」です。家庭や教会の中だけが平穏であっても、それは偽りの「平和」であって「キリストの平和」ではありせん。
 イエスはユダヤという共同体の中で「キリストの平和」を貫き、生きました。その結果、共同体の秩序を乱す者というレッテルを張られ、家族からも疎ましく思われ、最後には十字架への道を歩まれたのです。
【とこしえの平和】
 イザヤはBC8世紀、今から2700年以上前にこの預言を語り、700年後にイエス・キリストの誕生によって現実となりました。そして、今、それから2000年たち、キリストの平和は、なかなか実現していません。しかし、預言の言葉が実現していないからと言って、この言葉を現実に即して解釈してよいのでしょうか。
 10年ほど前から、憲法を語る時、「現実に即して」と語る政治家が増えてきました。恐ろしい事だと思っています。政治家が、また宗教家が理想や原則を捨てて現実路線に走る時、必ず不幸な出来事が起こります。過去の例をわざわざあげる必要のないくらいたくさんの例があり、私たちはそれを経験しています。
 だからこそ、今、キリストの福音に生きると決断した私たちクリスチャンは、真の平和が実現するように祈り、行動しなければならないのです。
 キング牧師は当時の社会の中で、多くのキリスト教会が、それも福音的と呼ばれる教会が奴隷制を支持したり、支持しないまでも、公民権運動に対しては批判的な態度をとっていたことに対して「正義とは愛に反するものを矯正する愛である」と語りました。
 多くの教会は神の愛を語っているのです。しかし、正義なき愛は、実体の伴わない虚構でしかないのです。言葉として、概念として愛を語っても、それは愛ではありません。愛でないばかりか、逆に人を傷つける言葉になってしまうのです。
 現代社会に生きる私たちクリスチャンの周りには、どんな現実があるのでしょうか。貧困や弱者に対する切り捨て、格差社会、派遣切り、高齢者、障害者に対する切り捨て、あげていくときりがありません。それにどんどん憂鬱な気分になってしまいます。
 まさしく今日のテキストにあるように「闇の中を歩む民」なのです。しかし、私たちは気落ちしてはいけないのです。必ず光が与えられるのです。その光は、私たちの主キリスト・イエスです。このイエスがここに来られたら、何をされるでしょうか。イエスならどうするか?私たちに対する聖書の問いかけなのです。

祈 り
讃 美   新生148 久しく待ちにし
献 金
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏