前 奏
招 詞   フィリピの信徒への手紙2章1~2節
讃 美   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
讃 美   新生 73 善き力にわれ囲まれ
主の祈り
讃 美   新生519 信仰こそ旅路を
聖 書   創世記41章1~13節
                      (新共同訳聖書 旧約P64)
宣 教   「夢のはなし」    宣教者:富田愛世牧師
【夢】
 今日は「夢のはなし」というタイトルを付けましたが、皆さんの今年の初夢はどのようなものだったのでしょうか。昔から「一富士二鷹三茄子」と言って、それぞれ縁起の良いものを初夢で見ると、さい先の良い新年のスタートとなるという事ですが、どうでしたか。
 私の今年の初夢は、と言ってお話しできれば良いのですが、見たか見ていないかも覚えていません。寝ている時の夢は、それなりに見ているのでしょうが、ほとんどの場合、朝起きた時は覚えているのですが、すぐに忘れてしまいます。ただ、小さい頃抽象的な夢をよく見ていて、それはよく覚えています。ただ、抽象的なので言葉に出して表現するのが難しいです。
 最近では、と言っても、もう10年位前の話しになりますが、夢の中でNという俳優さんが出て来て、一緒にオープンカーに乗ってドライブしたのです。それまで、Nさんのファンではありませんでしたが、その夢以降、ファンになりました。その夢にどんな願望や意味があったのかは全く不明ですが、きっと夢の中で楽しい時を過ごしたのだと思います。
 ということで、夢のはなしをしてきましたが、夢という言葉が意味するものは、今話してきたような、眠っている時に見るものだけではなく、将来に対する願望のようなものも夢として語られることが多いと思います。
 たぶん、皆さんも小学校の頃に作文のテーマとして「将来の夢」等というものが与えられて、作文を書いたことがあるのではないでしょうか。話題の大谷翔平選手は、小さい頃の夢がかなって、メジャーリーグに行って大活躍をしていて、夢がかなった人の代表のようになっています。
 このように、眠っている時に見る夢と将来に対する夢というように、二種類の夢があるように感じますが、これらは完全に切り離して考えることの出来るものではないような気がします。
 そして、昔から人々の興味を引き、様々な解釈がされてきましたが、現代科学でも解明はできない不思議なものなのではないでしょうか。
【夢占い】
 また、夢占いや正夢、デジャブと言われるような現象も多くの方が経験されているのではないでしょうか。
 私は市川に来る前、世田谷に住んでいた時も、横須賀に住んでいた時も、毎年お正月には横浜の中華街に行っていました。横須賀に住んでいた頃は、比較的近かったので、正月に限らず頻繁に中華街に行っていました。そして、中華料理を食べることはもちろんですが、街の雰囲気が好きでした。
 その雰囲気を作っているものの一つに「占い」のお店の多さがあると思います。最近では、占い専門の大きなビルが出来て、明るい雰囲気で若い女性が列を作っているという事ですが、以前はちょっと暗くてヤバそうな雰囲気の「占いの館」的なお店が多かったように感じます。
 そして、様々な種類の占いがありますが、その一つに「夢占い」というものもありました。私は占ってもらったことはありませんが、聞くところによると、夢に出てきたものや人、場所や背景、また、色とか明るさなどを聞いて占うそうです。
 正夢やデジャブについては様々な見解があるのだろうと思いますが、何かを予知するというよりも、現実の中で何かが起こった時、記憶の中に残っていた夢と現実を突き合わせ、認知バイアスと言われる働きによって、都合よく判断するだけのことだと言われています。
 また、フロイトやユングといった精神分析の専門家たちも夢に注目していました。ここにも専門家がおられますので、私が知ったかぶりで、生意気なことを言ってはいけないと思いますが、多くの人が夢に注目し、専門的に研究されてきたという積み重ねがあるという事は事実です。
 そういうことを考えると、夢というものを解明することは非常に難しいし、出来ないのかもしれません。しかし、解明できなかったとしても、人間の思考や深層心理に深い影響を与えていることは否定できない事実ではないでしょうか。
【神の介入】
 今日は13節までしか読んでいないので、王の見た夢とそれを解釈できる者がいるということを給仕役の長が王に進言したところまでですが、その先を読むと、ヨセフがエジプトで奴隷だったにも関わらず、王の見た夢を解釈することによって、国のナンバー2の地位についたことが記されています。
 前回お読みした創世記37章19節に「おい、向こうから例の夢見るお方がやってくる」とヨセフの兄たちが、ヨセフの事を揶揄している発言がありました。ヨセフの夢に限らず、ヘブライ語聖書の中には、夢に関する記録がたくさん出てきます。
 ヨセフの父であるヤコブは創世記28章で夢を見ています。その夢は、神の御使いたちが天からの階段を上ったり、下ったりしていて、そこに主が現れ「わたしはあなたと共にいる」と宣言されました。ダニエル書2章ではバビロンのネブカドネツァル王の見た夢をダニエルが解釈しています。
 新約聖書でもイエス誕生についての記事で、マタイによる福音書1章20節に、ヨセフが婚約者であるマリアの妊娠を知った時、主の天使が夢に現れて「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と語りました。
 このように聖書では「夢占い」的なことではなく、心理学的な解釈でもなく、神からの啓示の方法として夢が用いられることがあったのです。もちろん、だからと言って、今私たちが見る夢を神が用いられるという事ではありません。もしかすると、そのように用いることがあるかも知れませんが、私にはそのような経験はありませんし、聞いたこともありません。
 だからと言って、この物語が事実なのか、どうなのか、と疑うことは構わないかもしれませんが、それにこだわって、そのことばかりを調べようとするのは賢明なことではありません。不思議な出来事が起こった。そして、不思議な出来事が世界には存在し、そこに神の介入があることを認める事が大切なのです。
 さらに、エジプト王はヨセフと同じ信仰を持っていたわけではありません。エジプトの王ですから自らを神の化身としていたはずです。その王がヨセフの解釈を信じ、信じただけではなく、その解釈をそのまま国策として取り入れたのですから、驚くべき出来事だったのです。結果としてエジプトは、危機を回避することができたのです。
【恵みへの方向転換】
 今日の聖書箇所として読みませんでしたが、先ほど触れたように41章は全体を通してヨセフが奴隷からエジプトのナンバー2になったことが記録されています。続きの箇所を少しだけ見ていきたいと思うのですが、14節を見ると、牢屋から連れ出されたヨセフは王の前に立つために散髪をし、着替えています。
 何気ない一言ですが、散髪するという事は、ひげをそるという事とつながっているそうです。エジプトにはひげを生やす習慣がなかったそうです。反対にユダヤにはひげを生やす習慣がありました。つまり、ヨセフはエジプトの異教的習慣を受け入れたという事なのです。
 さらに、42節以下を見ると「印章のついた指輪を自分の指からはずしてヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた」と書かれています。これもエジプトの異教的習慣の一つなのです。
 ヨセフの生涯を見る時、父であるヤコブからの寵愛を受けましたが、それによって兄たちから疎ましく思われ、殺されそうになります。そして、エジプトへ売られ、エジプトで奴隷として生活しますが、神の守りの中で成功して主人の財産を任されるまでになるのですが、主人の妻がヨセフの美しさに心を奪われ、ヨセフを誘惑するようになるのです。ヨセフはその誘惑を拒絶するのですが、拒絶されたことで逆恨みされ、牢に入れられてしまうのです。
 このようにヨセフの生涯は波乱に満ちたものとなりましたが、従順に神に従うという姿勢を貫いたのです。神に従うという事は、ヨセフにとって、何かを排除するという事ではなかったようです。反対に逆境を含めて、すべて受け入れるという姿勢を貫いていたのです。
 ヨセフの生涯を通して表されている神の目的は人間を愛する事です。そして、ヨセフのように、神の目的に答える時、私たちも心を変えていく必要があるのです。それを聖書は悔い改め、つまり、方向転換と呼びます。自己中心から神中心に方向転換する時、すべてが恵みに変えられるのです。

祈 り
讃 美   新生572 神わが助けぞ
献 金
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏