前 奏 招 詞 ヨハネによる福音書8章58節 讃 美 新生 3 あがめまつれ うるわしき主 開会の祈り 讃 美 新生 59 父の神よ 汝がまこと 主の祈り 讃 美 新生397 み神を愛する主のしもべは 聖 書 出エジプト記3章1~15節 (新共同訳聖書 旧約P96) 宣 教 「わたしはある」 宣教者:富田愛世牧師 【モーセの召命】 昨年の秋から族長物語という事で創世記を読み続けてきましたが、前回のヨセフの話しで族長の物語は終わりになり、今日からはその続きとしてモーセの物語に入ります。その前に前回までの内容を少し振り返ってからモーセの物語、つまり出エジプトの物語に入りたいと思います。 族長物語というのは、イスラエル民族の始まりとしてアブラハムの物語から始まります。アブラハムは父であるテラと共に生まれ故郷、カルデアのウルを出発しカナン地方へと旅立ちハランという地に着きました。そして、75歳の時に神からの召命を受け、カナンへと向かうわけです。 アブラハムにはイシュマエルとイサクという二人の息子が与えられますが、アブラハムの後を継いだのはイサクの方でした。ただし、イシュマエルとイサクが仲たがいしていたわけではなく、神の計画としてイサクが後を継ぐのです。 その後、イサクにはエサウとヤコブという双子の息子が与えられますが、神の計画は人の常識を超えたもので、長男のエサウが跡継ぎになるのではなく、弟のヤコブがイサクの跡を継ぐようになるのです。そして、ヤコブにはイスラエルという新しい名が与えられ11人の男の子が与えられました。 その末っ子がヨセフで、ヤコブに溺愛されたことによって兄弟から妬まれ、エジプトへと売られてしまうのです。ヨセフはエジプトで奴隷生活をしましたが、神の守りの中でエジプト王に次ぐ、ナンバー2の地位にまで上り詰めたのです。 ヨセフの働きによって、イスラエルの民はエジプトで生活を続けるのですが、時がたちヨセフの事を知らない王の時代になって、イスラエルの民が増え過ぎたことに危機感を抱いたエジプトの王がイスラエル人を奴隷として苦役に就かせるようになりました。 そして、今日の聖書に続いていくのです。この箇所はモーセの召命の記事として有名ですが、その前に何故モーセが召命を受けたのでしょうか。 それはイスラエルの民の叫びがあったからなのです。イスラエルの民は何を叫んでいたのでしょうか。それは奴隷としての苦しみから解放してくれるようにという、切なる叫びだったのです。 【叫びとは何か】 この叫びという事が、この箇所の一つのキーワードになるのですが、叫びと言っても、様々な叫びがあると思います。 国語辞典を調べると 1、強い感情を持って発する大きな声 2、強く主張すること という二種類の意味が書かれていました。また、英語で叫びを意味する言葉には shout cry yell scream shriek screech という6種類の単語がありました。 7節を見ると「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と書かれています。「追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声」というのですから、強い感情を持って発する大きな声であり、さらに神への訴えですから、強く主張することという両方の意味を含んだものだったのではないかと思うのです。 イスラエルの民が、神の前に訴えていることは何なのでしょうか。単なる不平や不満、そして愚痴を言って、訴えているのでしょうか。そういうことではないように感じます。ここでイスラエルの民が訴えているのは、現状を神に向かって告白しているのです。 今、私たちはこのような状況の中に置かれているのだと訴え、さらに神に向かって、この現状を何とかしてほしいと訴えているのです。 現状をしっかりと理解するという事は、非常に大切なことなのです。単純に困っているというのではなく、何に困っているのか。それを理解していなければ、助け船が現れたとしても、それをどのように使えばよいか分からなくなってしまうのです。 イスラエルの民はエジプト人によって理不尽な扱いを受けている。同じ人間であるにもかかわらず、エジプト人がしないような、したくないような働きを押し付けられている。それが現状であると認識して、それを神に評価してもらおうとしているのです。 私たちが神に祈る時、時々、この点を間違えてしまうのではないでしょうか。現状をきちんと理解せず、何とかしてほしいと祈るのです。そして、現状を理解していないから、神からの答えをもらっているにもかかわらず、さらに見当違いな要求をして、神の答えを見つけられなくなっているのではないでしょうか。 【叫んでいるか】 今日の箇所に限らず、私たちは聖書を通してイスラエルの民が神に向かって叫んでいるという記事をたびたび読みますが、私たちは叫んでいるでしょうか。 実際に声に出して、大声で叫ぶという事は、あまり身近なことではないと思います。その理由として国民性というものがあると思います。良いとか悪いという事は関係なく、日本人は奥ゆかしさとか謙虚という事を大切にしていると思うのです。 木曜日の祈り会の時、礼拝のスタイルのようなことが話題に上り、ある方が韓国の牧師先生たちは激しく、情熱的に語る方が多いと言われました。もちろん個人差があるので、韓国の牧師先生たちがみんな激しく、情熱的に語るわけではありませんが、比較的そのような方が多いのではないかと思います。 そこには国民性の違いがあり、感情を直接的に表現することを良しとする国民性が韓国にはあると思います。そして、それは韓国に限ったことではなく、ラテン系の国などでは、そのような特徴が目立つと思います。反対に日本の国民性は、それを隠すことを良しとしているような気がします。 そして、感情を隠す理由として、知識や理性が邪魔をしていると説明することが多いのではないでしょうか。そのような思いから、神の前に叫ぶという事も少なくなっているように感じます。 また、この国民性の違いは、韓国の教会と日本の教会の違いにも大きく表れているように思われます。30年ほど前の話しですが、韓国の教会と日本の教会を比べる時、よく言われていたことは、韓国の教会は激しく祈るが、日本の教会は祈る前に議論したり、考えたりすることが多いというのです。 そして、この事実と教会成長には大きな関係があると考えられています。つまり、現状をありのままに、素直に叫ぶという行為に対して、神は答えてくださるのではないでしょうか。現状をありのままに、素直に叫ぶ前に、人間の愚かな知恵で、現状分析をしてしまうのが、もしかすると日本の教会なのかもしれません。 そんなことを言われても、恥ずかしいから、叫べません。というのが私たちの現実かも知れません。しかし、叫ぶという事は大声を出すことだけでなないと思います。内に秘めた熱い思いを持って、静かに、祈りの中で、神の前に叫ぶならば、神は答えてくださるのではないでしょうか。 【神は叫びを聞かれる】 それでは何故、神は民の叫びを聞かれるのでしょうか。その答えとして、最初に思いつくのは、神は愛の神だからという事ではないでしょうか。神はご自身が創造した人間を愛されました。ですから、愛する人間が苦しんでいて、その苦しみから解放してほしいと叫んでいるならば、それに答えるのが当然なのです。 しかし、それだけならば、モーセでなくても良かったかもしれません。モーセの生い立ちを見ると、生まれてすぐに川に隠され、それをエジプトの王女が見つけ、自分の子として育てるわけです。王室で育てられたモーセが自分の出生の秘密をいつ知ったのかは分かりませんが、ヘブライ人であることを自覚していたようです。 ある時、ヘブライ人がエジプト人から暴力を受けているのを見ると、そのエジプト人を殺してしまいました。さらに、ヘブライ人同士が争っている時、その仲裁に入るのですが、その時「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言われ、エジプト人を殺したことが公になるのを恐れ、ミディアンに逃げているのです。 つまりモーセは自分の正義を絶対化することによって、大きな失敗を犯し、逃亡生活をおくっていたのです。そんな者を神は選んだのです。それは、痛みを知っている者だったからではないでしょうか。 そして、その召命は神の名前に関係しているのです。「わたしはある」という名前について、ある神学者は「神の不可思議性」の表れだと語っています。不可思議とは、考えも及ばないことです。 つまり、神は唯一ですが、その働きは無限の広がりを持っているという事を意味しているのです。「わたしはある」と神がご自身の名前を示された時、そこには、私たちの考えも及ばないほど、多様な働きが含まれていて当然です。 そして、その一つは12節に書かれているように、共にいてくださるということです。自分の正義を絶対化したことによって失敗し、逃亡生活をおくっていたモーセを呼び出し、イスラエル解放の指導者に任命した神は、ありのままのモーセを受け入れ、共にいて助けてくださるのです。だから、安心して叫べるのです。そして、その叫びを神は聞いてくださるのです。 祈 り 讃 美 新生645 すべてをくださる恵みの神 献 金 頌 栄 新生668 みさかえあれ(A) 祝 祷 後 奏
2024年1月21日 主日礼拝
投稿日 : 2024年1月21日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー