前 奏
招 詞   ヘブライ人への手紙11章29節
讃 美   新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
讃 美   新生538 神はわがやぐら
主の祈り
讃 美   新生445 心静め語れ主と
聖 書   出エジプト記14章15~22節
                     (新共同訳聖書 旧約P116)
宣 教   「フォロワーシップ」    宣教者:富田愛世牧師
【最初の問題】
 前回読んだ出エジプト記12章で、イスラエルの民はエジプトを脱出することとなりました。モーセを先頭にして、イスラエルの民は、神が約束してくださる地、乳と蜜の流れる約束の地へと意気揚々と向かったのではないかと思います。
 しかし、現実はそんなに甘いものではなく、今日の箇所を初めとして、次々と問題が起こってくるのです。ただ、それらを問題と捉えるのか、それとも神からの試練であったり、課題であったりと捉えるのかという違いは大きなものだと思うのです。
 ここでは、頭を抱えて「問題だ!」と言う必要がない理由が記録されています。それは、神が「昼は雲の柱、夜は火の柱」を用意し、イスラエルの民を先導されたという事が13章に記録されているからなのです。つまり、問題が起こったと考えるのは、民の不信仰の表れだという事なのではないでしょうか。
 さて、今日は出エジプト記14章15節から読んでいただきましたが、14章には「葦の海の奇跡」という小見出しが付いています。ここにお集まりの多くの方にとって懐かしく思い出すことができるであろう「十戒」という映画がありました。チャールストン・ヘストンやユル・ブリンナーといった有名な俳優が出演した名画と言われる映画です。その印象的なシーンの一つに紅海が二つに割れるというシーンがありました。
 出エジプト記14章5節を見ると「民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。」とあります。ファラオはイスラエルの民を解放したことを後悔し、軍隊を招集して連れ戻そうとしたのです。
 エジプトを脱出したイスラエルの民は荒野を進み、葦の海まで進んだところでした。目の前には葦の海、後ろにはエジプトの軍隊が迫ってきている。絶体絶命の危機に陥り、民はモーセに向かって文句を言いだすようになったのです。
 しかし、この文句はモーセに対するものであると同時に、神への不従順の表れでもあったのです。神はイスラエルのために「昼は雲の柱、夜は火の柱」を持って先導していたのです。神の導きに従えば問題はないはずなのですが、目の前にある危機的状況を見てしまった時、民の心は不安と恐れに支配されてしまったのです。
【フォロワーシップとは】
 今日は「フォロワーシップ」というタイトルを付けました。あまり聞きなれない言葉だと思います。「フェローシップ」とか「ワーシップ」という言葉ならば、教会の中でよく耳にする言葉だと思いますが、フォロワーシップという言葉は聞いたこともないという方もいると思います。
 フォロワーにはリーダーを補佐する人という意味があります。それにメンバーシップやスポーツマンシップのようなシップという言葉が続くので、資格や心構えといった意味が結合されて補佐する能力と訳されていました。最近ではビジネスの世界でも使われるようになり、会社組織やプロジェクトチームにおいて、その目的を達成するために、主体的に考えて行動することと言われています。英語の表現なので、日本語に訳すのが難しい言葉です。
 しかし、キリスト教的な表現としては「仕える者のあり方」と訳してもいいのではないかと思っています。そして、この仕えるという対象は、本来「神」になっているのですが、時には、神によって立てられたリーダーという事にもなるのです。
 ここではモーセという神に立てられたリーダーとイスラエルの民という関係の中でフォロワーシップという事を考えていきたいと思っています。
 モーセは神によって立てられたので、リーダーとしてイスラエルの民を導く働きに就きましたが、前回もお話したように、モーセには一般的に考えられるようなリーダーシップはなかったように思えます。しかし、神はモーセを含む、イスラエルの民にフォロワーシップという大切な資質を身に着けさせるため、モーセをリーダーとしました。
 フォロワーシップとは仕える者のあり方だと言いましたが、この関係性を確かなものにするためには、お互いの間に信頼関係がなければなりません。この信頼関係とはどのように築かれるのでしょうか。
 ビジネス書や自己啓発関係の書物を読むと様々なことが書かれています。どれも大切なことだろうと思いますが、私はお互いに信じ、信じられることの一点だと思うのです。ただし、すべての人と信頼関係が築けるとは思っていません。相手を信頼し、相手もその信頼に応えてくれる場合もありますが、裏切られることもあるのが現実です。
 モーセに対してイスラエルの民は、神によって立てられたという点において、信頼していかなければならなかったのです。モーセを信頼できないという事は、その任命責任者である神を信頼しないという事になるのです。
【フォロワーシップは奴隷ではない】
 ただ、このように「神」の名を出して信頼しなさいと言うと、無批判に信頼しなければならないような圧力を加えてしまうことも事実です。これは宗教全般に当てはまることなので、特に注意しなければならないことだと思います。
 神の名が出されたとしても、どのような文脈の中で出されたのかという事をしっかりと確認して受け入れなければならないのです。ここでは、神が先に立って、民を導いてくださるという約束があり、その中でモーセが立てられたという事ですから、モーセに従うことが求められるのです。
 次に「従う」という事についても、聖書の中には様々な従い方が出てきます。奴隷のような従い方から僕や雇い人のような従い方、また、イエスが語られる「友」としての従い方まであります。
 フォロワーシップというのは、無批判に、奴隷のように従う事ではありません。奴隷の働きとは、明らかな上下関係で、そこには人権意識というものはありません。そして、本来労働に対しては、その対価が支払わなければなりませんが、奴隷に対しては、その対価は支払われないのです。人権など完全に無視された「労働力」なのです。
 そして、聖書の中によく出てくる僕や雇い人としての従い方は、主人の命令に対して忠実に事を成していくことです。イエスのたとえ話で5タラントン預けられ、主人が帰って来た時、さらに5タラントン設けた僕は「よくやった忠実な僕よ」と褒められていますが、預けられた1タラントンを土の中に隠していた僕は「悪い怠惰な僕」と叱責されています。
 放蕩息子のたとえでは、放蕩の限りを尽くして、一文無しになり、豚の食べるイナゴ豆で腹を満たしたいと思った息子は、父の家に帰り雇い人の一人にしてもらおうと考えました。主人である父の命令に従えば、相応しい報酬が得られるという事なのです。
 奴隷は本人の意思に関係なく、強制的に連れてこられ、強制的に仕えさせられるのです。ここにあるのは関係性などと呼べるようなものではありません。そして、僕や雇い人ですが、現代的な表現としては雇用関係という契約によって結ばれるものなのです。
【愛の関係】
 3つ目にイエスが語られる「友」としての従い方というものがあります。ヨハネによる福音書15章にぶどうの木のたとえ話があります。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」というたとえ話ですが、この話を終えたイエスは、私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさいと語られました。
 そして、イエスの命じる愛を実践するなら「わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ」と語りました。主人が何をしているのか、何をしたいのか、それらを理解した者に対して、イエスは「友」と呼ばれるのです。さらに、そのような者が神の子と呼ばれるのです。
 初めに、「フォロワーシップとは『仕える者のあり方』と訳してもいいのではないかと思っています。」と言いました。ただ、「仕える」という言葉のイメージがあまり良いものでないことも確かです。
 誰かに仕えるという事は、何となく自分を卑下しているように感じることもあります。また、仕えられるという事には、どこか自分が偉ぶっているような感覚で捉えてしまうこともあると思うのです。
 しかし、イエスが語るように、互いに愛し合う関係にあるならば、偉ぶったり、卑下したりすることはなくなるのではないでしょうか。イエスが人々に仕えたように、私も誰かに仕えていく、そこにあるのは「愛」による関係性なのです。
 同じように誰かに自分の仕事、働きを手伝ってもらう時、申し訳ない等と思う必要はないのです。その人もイエスの愛に倣って、私に仕えてくれているのです。だから、そこには感謝が生まれてくるのです。

祈 り
讃 美   新生655 いざ皆来りて
献 金
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏