前 奏
招 詞 出エジプト記15章2節
讃 美 新生 14 心込めて主をたたえ
開会の祈り
讃 美 新生377 ああ麗しきシオンの朝
主の祈り
讃 美 新生426 語りませ主よ
聖 書 コリントの信徒への手紙一12章4~7節
(新共同訳聖書 新約P315)
宣 教 「あなたの役割」 宣教者:富田愛世牧師
【教会とは】
今日はコリントの信徒への手紙一12章4~7節を通して、御言葉を聴いていきたいと思いますが、今日はここから、まず、教会とは何であるか、ということ、そして、その教会にとって、私たち一人ひとりはどのような存在なのかをみていきたいと思っています。
教会とは一体何でしょうか。一般的に多くの人が、このような質問を受けてイメージするものは、教会堂という建物のことではないかと思います。以前、ウエディングチャペルと呼ばれる、結婚式専用のチャペルで、結婚式のお手伝いをしたことがあります。そこでは、本物の牧師がプロデュースしていたので、式の前に20分くらいのカウンセリングの時間がありました。
私がその時間に必ずお聞きすることの一つが「教会に行ったことがありますか」という質問でした。私の経験では、教会に行ったことのある人は1割弱というところでした。その内の8割が、友人の結婚式で教会に行ったことがあるというのですから、本物の教会に行ったことのある人は、本当にわずかしかいませんでした。
また、ミッションスクールに通っていて、礼拝に出席したことのある人は、割合としてもう少し多かったのですが、それも教会というより、教会堂という建物に入ったことがあるというだけなのです。
クリスチャンの中でも、教会と言った時にイメージするものは、建物としての教会堂をイメージする人のほうが多いように思います。地域に根ざした教会という言葉をよく聞きます。地域に根ざした教会になるためには、地域の人々が教会堂に入り易くするとか、牧師が地域の行事に積極的に参加するとか、そういうことが求められます。しかし、本当にそういうことなのでしょうか。確かに、そういったことも一つだと思いますが、それらが第一ではないように思うのです。
聖書に出てくる、一番初めの教会というのは、使徒言行録2章のペンテコステの場面です。ここには教会堂のような、建物はありません。牧師もいませんでした。ただ、イエスを信じる人々が集まっていただけなのです。つまり、教会というのは、建物であるとか、組織であるとか言うのではなく、ただイエスを救い主であると告白する人がいれば、そこが教会であると言えるのです。
ですから、地域に根ざした教会というのは、地域に根ざした教会員、クリスチャンがいて、どのような証しが地域に対して、なされているかということなのです。教会堂のある場所が教会の地域ではなく、メンバー一人ひとりの置かれている場所が、教会の地域なのだと、私は考えています。しかし、ここで誤解してはいけないのは、一人では教会ではないということです。私たち一人ひとりは、教会の一部ではあるけれども、教会そのものではないのです。
イエスはマタイによる福音書18章20節で「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました。一人では、だめなのです。そこにはイエスがおられないのです。イエスがおられない教会は有り得ません。二人でいいのです。交わり、関係があればそこにイエスが伴ってくださり、そこに教会が成り立つのです。
さて、イエスのおられた時代には今のような形の教会は、存在しませんでした。しかし、聖書の中でイエスは教会をつくるように命じておられます。教会とはイエスを救い主と信じる者の集まりです。
また、パウロは、教会とはキリストの体であると語っています。つまり、教会とは目に見える形の地域にある教会と、目に見えない形のクリスチャンの群れとしての教会の両方を意味しているのです。私たちが「教会」と言うとき、両方をイメージしておかなければならないのです。
【教会と霊の賜物】
今日の聖書の箇所は「霊の賜物」について語っています。パウロは、教会を建て上げるために霊の賜物をもちいなさいと勧めています。
教会とは、今、お話したように、イエスを救い主と告白する者、つまりクリスチャンが二人または三人集まったところです。しかし、それだけではまだ、教会は建てあげられてはいないのです。そこで、お互いの賜物が用いられなければならないのです。賜物が用いられるとはどういうことでしょうか。
4節を見ると「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」とパウロは語ります。当時の教会においても、現代の教会においても同じことが言えるのではないかと思いますが、人の目から見て、価値のある賜物と、価値の低い賜物とがあったようです。そのことのゆえに教会の中に混乱や問題が起こってしまったのです。
たとえば、子どもが二人いたとします。一人は高校生で、もう一人は小学生です。誕生日にプレゼントを買うとしたら、予算はどのくらいにしますか。小学生に1,000円くらいのものを買うとしたら、高校生にも同じくらいの予算で買うのが、公平なのでしょうか。同じものを与えることが公平なのではありません。
ある人の目には、価値のある賜物が、別の人の目には価値の低い賜物と映ることがあるのです。しかし、神の目から見るならば、その二つに差はないのです。神はAさんにはこの賜物が一番適しているから、それが与えられるのです。そしてBさんには別の賜物が一番適しているので、それが与えられるのです。
しかし、私たちは、隣の芝生は青く見える、というように他人の賜物のほうが優れているように思い、ねたんだり、うらやんだりするのです。このように賜物について、お互いに優劣を付けてみたり、うらやんでみたり、ねたんでいたのでは、用いるどころではありません。かえって、賜物のために教会が分裂してしまう結果になってしまいます。
神は教会を建て上げるために賜物を与えてくださるのに、なぜこんなことが起こるのでしょうか。それは、私たちが賜物について正しく理解していなかったり、賜物の良き管理者としての学びを受けていなかったりするからなのです。
賜物についての正しい理解や、よき管理者としての学びは難しいものではありません。非常に単純なものなのです。正しい理解として、賜物とは何ですか?と聞かれるならば、それは、神が教会を建て上げるために、クリスチャン一人ひとりに、ふさわしいものとして与えてくださる資質なのです。そして、よき管理者としての学びで一番大切なのは、それを用いること、そして、人と比べないこと、互いの賜物を尊重すること、この3点に尽きるのだと私は考えています。
賜物が用いられるとは、一人ひとりが自分のできることを、無理するのではなく、強いられるのでもなく、しかし、手抜きをするのでもなく、精一杯、できることをしていく、そして、一人で背負い込むのではなく、他の人の手を借りることなのです。
自分の得意な分野の仕事をする時、他の人の手を借りると、足手まといになったり、邪魔に感じたりします。しかし、それでは教会は建て上げられないのです。時間がかかっても、面倒くさくても、そこに新しい発見、教会の豊かさというものが見えてくるのです。そして、教会が教会として建て上げられるのです。
【賜物を見極める】
霊の賜物は、すべてのクリスチャンに与えられています。しかし、種類や程度に違いがあるのです。主はその人に一番適した賜物を、一番適した時に、一番適しただけ与えられます。人の目から見て、何の取り柄もないように見える人にも、必ず与えられているのです。
私は牧師の仕事というのは、その人に与えられている賜物を見つけ出すことにあるのだと思っています。イエスを頭とした教会に集う、一人ひとりに与えられている賜物が、何なのかを見つけ出し、その人が、教会を建て上げるために、その賜物を用いることが出来るように導くことが、牧師の大切な働きだと思っています。
私は昔、よくゴスペルコンサートを計画し、開いていました。コンサートという一つのイベントを作り上げるためには、色々な人、たくさんの人が必要です。出演する人はもちろんのこと、宣伝したり、チケットを売ったり、舞台の構成を考えたり、もちろんお客さんが来なければだめなので、お客さんもコンサートを作り上げるひとりです。
そして、欠かせないのがプロデュースする人です。全体を把握し、それぞれの働きをバランスよく、コーディネートしていかなければならないのです。出演者が勝手に、照明や音響のことを考えずに、ステージに上がって歌ったり、動き回ったりするならば、うまくいきません。出演者は楽器などの演奏という特技を用いるし、チラシやポスターを作る人は、美術的な特技を用い、音響や照明は専門的な技術という特技を用いるのです。
教会も同じだと思います。牧師も神によって与えられた賜物を用いますが、クリスチャン一人ひとりも、同じように自分に与えられている賜物を用いなければならないのです。それは、神があなたを必要としていることの証しなのです。
必要なひとりであり、大切なかけがえのないひとりだからこそ、賜物と働きが与えられているのです。そして、その働きがなければ、教会が教会として建て上げられないのです。
祈 り
讃 美 新生344 聖なるみ霊よ
献 金
頌 栄 新生671 ものみなたたえよ
祝 祷
後 奏
2024年5月12日 主日礼拝
投稿日 : 2024年5月12日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー