前 奏
招 詞   イザヤ書51章12節
讃 美   新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
讃 美   新生 27 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
讃 美   新生495 主よ み手もて
聖 書   コリントの信徒への手紙二1章3~11節
                            (新共同訳聖書 新約P325)
宣 教   「力となる慰め」    宣教者:富田愛世牧師
【手紙の振り返り】
 今日からコリントの信徒への手紙二を読み始めるので、最初にコリントの信徒への手紙の書かれた背景などを振り返ってみたいと思います。
 パウロは第二回伝道旅行の際、コリントの町を訪ね、そこに一年半滞在しました。そして、コリントの町を離れてからも事あるごとに手紙を書き送っていたようです。コリントの信徒への手紙一5章9節を見ると「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが」とあります。つまり、第一の手紙を書く前にも、コリント教会に宛てて手紙を書いていたという事になります。
 そして、コリント教会の中で問題が起こったという事を伝え聞き、その問題解決のために第一の手紙を書いたようなのです。ただ、手紙を書いただけで問題が解決したのかというと、残念ながら問題解決には至らなかったようなのです。
 手紙だけではなく、パウロにとって信頼のおけるテモテを自分の代わりに遣わすという事もしていたようなのです。しかし、手紙やテモテを遣わすだけでは問題は解決しないどころか、パウロがもう一度コリントに来るようなことはないだろうと、たかをくくって高ぶっている人がいたようなのです。
 第一の手紙4章18~19節に「わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。」とあります。
 パウロはもう一度コリントに行きたいと願っていたのです。しかし、それは実現できませんでした。第二の手紙1章12節以下を見ると、コリントに行こうと計画したけれど、計画倒れになってしまったことを非難されていたことが分かります。
 このようにパウロは何度もコリント教会に宛てて手紙を書いていたようなのです。このコリントの信徒への手紙二は、そのようないくつかの手紙が、後の時代に編集されて一つにまとめられたものだろうと考えられているのです。
【慰めの連鎖】
 さて、今日与えられている箇所は1章3~11節ですが、新共同訳聖書では「苦難と感謝」という小見出しが付けられています。さらにこの箇所は3~7節と8~11節に分けることができます。
 前半の3~7節には苦難とか苦しみという言葉が7回、そして、慰めという言葉が8回書かれています。これだけの短い箇所に、それぞれ7回と8回繰り返されているという事は、この二つの言葉が重要なキーワードなのだという事が分かると思います。
 私たちは苦しみや苦難を経験する時、どのように対処するかが、とても重要なことではないかと思うのです。そして、この対処の仕方には大きく二つの方法があると思うのです。一つは苦しみや苦難に「耐える」という事です。多くの場合、そして、多くの人は苦しみや苦難を耐えていると思います。
 そして、もう一つは苦しみや苦難の原因を探し、それを解決しようとするのではないでしょうか。原因を探すことはとても大切なことですが、その解決方法によってはとんでもないことになる可能性があります。
 例えば平和という事を考える時、憎しみの連鎖を断ち切ることの重要さが話題に上ります。同じように、自分を苦しみに陥れた原因となる誰か、つまり、敵を見つけ、敵に対して報復することによって解決できたかのように思ってしまうことがあります。しかし、それは解決ではなく、憎しみの連鎖の始まりとなるのです。敵に対して報復すれば今度は報復された敵にとって、こちらが苦しみの原因となり、憎しみの連鎖が続いてしまうという愚かな結末が待っているわけです。
 ところが4節を見ると「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」とあります。神は私たちの苦しみに対して共感してくださり、さらに慰めてくださると語るのです。
 神によって慰められた人は、ここに書かれているように隣り人に対して慰めの言葉をかけることが出来るようになるというのです。
 そうするなら、ここから慰めの連鎖が始まるというのです。ただ、私たちは慰めの言葉をかけた相手が、次の人へと慰めの言葉をかけることができるだろうか、と不安になるのです。しかし、そんなことは考えなくていいのです。
 その人が、私と同じように隣人に向かって、慰めの言葉をかけられるように祈っていくことが大切なのです。
【絶望の淵から】
 次に8節から10節で、パウロは自分たちの身に起こった苦難について語り始めます。8節に書かれている「アジア州でわたしたちが被った苦難」とは、どのようなものだったのかははっきりしません。パウロはアジアの各地で宣教活動を行いましたが、順風満帆だったわけではありません。
 パウロたちに好意的な町もあったけれど、敵意むき出しの町もあったようです。使徒言行録19章21節以下を見ると、エフェソでの出来事が記録されています。もしかするとエフェソでの出来事を想起しているのかも知れません。
 エフェソの町にはアルテミスという肥沃豊穣の女神があり、その神殿の祭具やお土産を作る銀細工人がたくさんいたようです。そのような町でパウロは唯一の神について宣べ伝えていたので、パウロの事を良く思わない銀細工人たちが群衆を扇動し、暴動を起こしました。
 この時、パウロは「生きる望みさえ失って」「死の宣告を受けた思い」だったのかもしれません。絶望の淵に立たされた思いをしたとしても不思議ではないのです。
 私たちもそれぞれの生活の中で、絶望感を味わったことがあるのではないでしょうか。そのような時、どう対処しましたか。
 パウロは、自分を頼りにするのではなく「死者を復活させてくださる神を頼りに」したのです。ここでパウロは「キリストを復活させた神」ではなく「死者を復活させてくださる神」と語っています。
 コリントの信徒への手紙一15章12節で、死者の復活などないという人がコリント教会にいたということが記録されています。だから、パウロは敢えて「死者を復活させてくださる神」と語り、神の力の偉大さを強調しようとしているのではないでしょうか。
 さらに10節では「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」と繰り返し、神に希望を置くことへの確信を語っているのです。
【祈りの力】
 そして、11節では「あなたがたも祈りで援助してください。」と訴えているのです。
 先ほど「慰めの連鎖」のところでお話したように、神によって慰めを受けた私が、今度は隣り人に向けて慰めの言葉を語ることが出来るように変えられ、慰めの連鎖が始まると言いました。しかし、その人が次の人に対して、慰めの言葉を語り、慰めの連鎖が続くかどうかは、私たちには分かりません。しかし、私たちには祈ることができると言いました。
 信じて祈っていくならば、そこには希望があるのです。そして、祈りには力があるという事を信じ、そこに希望を置いても良いのではないでしょうか。それでも、もしかすると、裏切られるかもしれません。そのような時にはイエスの姿を思い出せばいいのです。
 ゲッセマネの園で、弟子たちに向かって、一緒に祈ってほしいと願われました。しかし、弟子たちは眠気に負け、祈らず眠りこけました。そんなことが三度続きました。イエスでさえ、弟子たちに裏切られ続けたのです。
 私たちが、誰かに対して、何かを求めた時、裏切られずに叶えてもらえたなら、それはすごい出来事なのです。裏切られるかもしれないのが、世の常なのかもしれません。しかし、裏切られるからと言って、最初から期待しないのでは、あまりにも悲しいだけです。
 だから、そこには祈りがあるのです。そして、祈りには力があるのです。ただ、その力は私たちの自由になるものではありません。どのように働くのかは分かりません。しかし、結果を見る時、私たちは気付くのです。それが最善だったという事に。

祈 り
讃 美   新生552 わたしが悩むときも
主の晩餐  
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏