前 奏
招 詞 雅歌1章3節
賛美歌 新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
賛美歌 新生464 主が来られて呼んでおられる
主の祈り
賛美歌 新生430 しずけき祈りの
聖 書 コリントの信徒への手紙二2章14~17節
(新共同訳聖書 新約P327)
宣 教 「パレード」 宣教者:富田愛世牧師
【コリント伝道の背景】
今日の聖書教育には「共に勝利の行進に」というテーマが掲げてあります。そこから「パレード」という宣教題にしましたが、メッセージの準備をする中で別のテーマが与えられました。それは「キリストの香り」という事です。今さらテーマを変えるつもりはありませんが、この二つのテーマから見ていきたいと思います。
先ほど読んでいただきませんでしたが、聖書教育では12節から17節までになっています。12節から見ると分かるように、ここにはパウロの第二回伝道旅行の出来事が語られています。この第二回伝道旅行については使徒言行録16章に、その様子が書かれていますが、15章36節以下を見ると、幸先の良い出発ではなかったようなのです。
パウロは第一回伝道旅行では、バルナバと共に聖霊によって送り出されていて、この第二回伝道旅行でもバルナバと共に送り出してもらいたいと考えていたようです。ところがバルナバは第一回伝道旅行の途中で帰ってしまったマルコを連れて行きたいと言い出したのです。パウロは途中で働きを投げ出してしまうようなマルコに信頼を置くことが出来ず、二人は別々の行動をすることになってしまったのです。
つまり、第二回伝道旅行はパウロの計画とは違う始まり方で、その働きが始まったのです。しかし、それは神の計画であったという事なのです。
この第二回伝道旅行の前半はアジアでの活動でした。現代のトルコ国内での働きになります。コリントの信徒への手紙二2章12節を見ると「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが」とあります。
伝道活動としては、調子よく進んでいたようなのです。ところが、最後に「が」とあるようにトロアスで働きを展開しようとしていたにも関わらず、マケドニアへ渡るようにと聖霊によって促されてしまうのです。そして、海を渡ってアジアからマケドニアへと進み、コリントまで進んでいったのです。
【勝利の行進】
さて14節は「神に感謝します」という言葉で始まっていますが、パウロは何を感謝しているのでしょうか。12節からの関わりで見ると無理がありますが、第二回伝道旅行を感謝していると捉えても構わないと思います。
しかし、パウロにとって第二回伝道旅行の同行者は、パウロが望んでいたバルナバではなく、シラスという人になってしまいました。もちろんシラスがダメだという事ではなく、望んだ通りにはならなかったという事です。
さらに、トロアスで伝道を展開したかったにもかかわらず、聖霊によって禁じられ、マケドニアへと運ばれているのです。これもパウロが望んだことではありませんでした。
パウロの望みは、ことごとく神によって否定されているのです。にもかかわらず、パウロは「神に感謝」しています。なぜなのでしょうか。そこにはパウロの伝道者としての姿勢が現れているのです。
コリントの信徒への手紙一9章23節を見ると「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」と語っています。パウロは、自分が望むことをするのではなく、神が望むことをするという徹底した、神への従順という姿勢を示しているのです。
そのような姿勢によって、神はパウロを「キリストの勝利の行進」に連ならせてくださるのです。ここでパウロが例として出している「行進」とは、当時のローマ軍が戦争に勝利して、凱旋した時の凱旋パレードをイメージしているようです。
ローマの凱旋パレードは、凱旋将軍が月桂樹の冠をかぶり、紫のガウンを着て、顔を赤く塗って神として崇められるようなパレードだったようです。一般市民は歓声を上げ、パレード中はずっと音楽が奏でられ、香が焚かれ、花吹雪が舞ったということです。
【キリストの香り】
「聖書教育」にも凱旋パレードで香が焚かれていたと書かれていますが、この「香を焚く」という習慣は世界中にあり、日本でも神社、仏閣での様々な場面で香が焚かれています。一番身近な事としては、仏式の葬式では、焼香をするのが一般的だと思います。焼香の意味については、各宗派によって違いがありますので、一概には言えませんが、元来の意味としては、他の匂いを消して「香」本来の香りをその場に満たすという事です。
そして、それはほとんどの宗教や文化に共通していて、香には、その場の空気を浄化する作用があり、火や煙にも、同じように浄化とか、邪気を払うという意味があるようです。
パレスチナでも同じような意味合いで用いられていて、イエスの誕生の場面でも東方から来た占星術の学者たちからの贈り物の中に「乳香」と「没薬」がありました。ユダヤ教でも香を焚きますし、キリスト教の中でもカトリック教会や東方正教会では、ミサの時に香を焚いています。
ちなみに、今日、礼拝堂に入って来て、いつもと違う香りがしていることに気付かれた方はおられるでしょうか。今朝、礼拝前にミルラという香を焚きました。この香りが嫌いな方もいるかもしれないので、申し訳ないと思いましたが、今日だけは我慢してもらいたいと思います。このミルラという香りは、イエスが誕生した時、東方の占星術学者が持ってきた没薬の事なのです。
話を戻して、ローマ時代の凱旋パレードで用いられた香も、戦争で汗まみれになった兵士たちの匂いを消し、町中に良い香りを満ちさせ、戦勝の喜びを町全体で共有させるためだったと考えられています。
さらに、戦勝ということで、戦争が終わった。平和がやってくるという人々の安堵の思いを表すものとして、安心できる香りであり、喜びの香りとして香が用いられたのです。
パウロがここで「知識の香り」と語るものも、「良い香り」と語るものも、それらは人々にとって安心と喜びを与えるものなのです。そして、それこそがキリストの香りなのです。
【福音を語る】
15節を見ると「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」と語られ、16節では「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」と語られています。
「死に至らせる香り」であり「命に至らせる香り」とはどういうことなのでしょうか。このような表現を見ると、救われる者と滅びる者が既に決まっていると解釈することがあります。
しかし、パウロはそんなことを語ろうとしているのではありません。コリントの信徒への手紙一1章18節にあるように、救われる者には神の力となる希望として受け止めることの方が幸いな受け止め方ではないでしょうか。
そして、このような務め、つまり福音を語る働きに誰がふさわしいのかと問いかけているのです。問いかけながら、その答えは既にパウロの中にはあります。パウロは自分がその働きにふさわしいと考えているわけではありません。それは、キリストに出会う前の自分をよく知っているからなのです。
また17節では「神の言葉を売り物にせず」とありますが、これは当時、お酒に水を混ぜ、薄めて売っているような悪徳商人がいたようで、水増しするという意味の言葉なのです。
コリント教会には福音を都合よく解釈する人がいたようなのです。今の私たちに当てはめるなら、「聖書にはこう書いてある。しかし、現実に目を向けるなら・・・」と言って福音を捻じ曲げてしまう事なのです。
私たちに求められるのは、キリストの福音を忠実に受け取り、キリストの後に従っていくことによって、パレードに連なる一人となること。それによってキリストの香りが放たれていくようになることなのではないでしょうか。
祈 り
賛美歌 新生580 十字架の旗ひるがえし
献 金
頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷
後 奏
2024年6月9日 主日礼拝
投稿日 : 2024年6月9日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー