前 奏
招 詞 申命記10章14節
賛美歌 新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
賛美歌 新生389 昔主イエスの蒔きたまいし
主の祈り
賛美歌 新生131 イエスのみことばは
聖 書 コリントの信徒への手紙二12章1~10節
(新共同訳聖書 新約P339)
宣 教 「秘められた強さ」 宣教者:富田愛世牧師
【第二の手紙の概観】
4月からコリントの信徒への手紙を断片的にではありますが、読み進んできました。そして、今日が最後になります。4月と5月は第一の手紙を読んでいたので、ある程度理解しやすかったと思います。ところが第二の手紙になると、話題の途中で、別の話題が入ってきたり、途中で切れたりして、読みにくかったかもしれません。
最初に「この手紙は複数の手紙が、後の時代になって組み合わされたものです」と説明しましたが、今回が最後なので、全体の流れを説明しておきたいと思います。
1章1~2節は小見出しにあるように「挨拶」です。そして、3節から2章13節までは「和解の手紙」と呼ばれ、パウロ自身が受けてきた苦しみをコリント教会の信徒たちと共有し、さらには互いに慰め合うことができる幸いを語っています。また、コリントを訪問したいと考えていたようですが、それが延期になってしまったことへのお詫びなども書かれています。
ここまでは話が順調に流れていたのですが、2章14節で突然「神に感謝します」という言葉で話題が中断されています。そして、6章13節まで「使徒職の弁明と擁護」という内容で語られています。今回の聖書教育の学びでは読みませんでしたが6章14節から7章1節までは、ヘブライ語聖書の言葉が組み合わされた「訓戒」のような内容になっています。
7章2節から4節は、2章14節から6章13節までの続きとなっていて、7章5節から16節までは、1章3節から2章13節までの「和解の手紙」の続きとなっています。そして、8章と9章は前回お話したように、それぞれが独立した2通の手紙で、エルサレム教会の貧しい人たちへの募金の手紙となっています。
最後に10章1節から13章10節までは、パウロの敵対者に対する反論が書かれています。パウロの敵対者については、律法主義的な人々やグノーシス主義と言われる人たちではないかと考えられています。いずれにしても出来たばかりの教会を混乱させ、信者たちをつまずかせていたようなので、パウロにとっては許しがたい相手だったようです。(NTD聖書注解より)
【無益なこと】
さて、今日の箇所は第二の手紙の12章1節から10節までですが、1節から4節までを見ると、パウロは「誇っても無益ですが」と言いながら「誇らずにはいられません」と語っています。
パウロにとって、自分が経験したことは、確かに素晴らしい出来事だったかもしれませんが、それらはすべて、神の計画の中で進められていただけの出来事だと考えているのです。しかし、その体験と言われるものが、ある人たちにとっては誇らしい体験だと思われたのだと思います。
現代の教会は様々な教派に分かれています。私たちの教会はバプテスト派ですが、他にも改革派、組合派、ルーテル派、また、福音派や聖霊派といった教会もあります。なぜたくさんの教派があるのかというと、同じ信仰を持っていたとしても、それぞれが大切にしたい事柄は違っているからなのです。
コリントの信徒への手紙一を見ると、コリント教会にはいくつかの分派があったことが分かります。その中にはパウロに敵対する人たちもいて、そのような人たちの一つは自分の知識や知恵を誇る、知的なクリスチャンたちだったようです。
そして、それだけではなく霊的な、神秘体験を誇りとするような、感情的なクリスチャンもいたようなのです。しかし、パウロは霊的な体験を軽視しているわけではありません。コリントの信徒への手紙一12章には「霊的な賜物」について書かれていますので、その必要性も理解していたのです。
パウロ自身どのような霊的体験をしたのか、具体的には書かれていませんが、「第三の天にまで引き上げられ」などと書かれているように、特別な霊的体験を経験していたようです。しかし、それはパウロの誇りとはなりませんでした。パウロは自分の体験を引き合いにして、霊的な体験を否定はしていませんが、そのような体験が誇りとなってはいけないということを強調しているのです。
霊的な体験の一つとして、異言を語るということがあります。パウロはコリントの信徒への手紙一14章18~19節でこう語っています。「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。」
【弱さを誇る】
コリント教会では、霊的な体験として「異言」を語ることが誇らしいと感じていたようです。特別な、不思議な体験をすると何となく、理由はありませんが、霊的に高められたような気がするのかもしれません。
ですから、多くの人が異言を語れるように、もしかすると練習していたのかもしれません。実際に私の友人がある教会に牧師として招かれ、最初に驚いたのが、その教会では異言を語る練習が行われていたという事でした。
霊的な体験は大切なことであり、必要なことです。しかし、それらは自分か望んだり、努力したりして得るものではありません。ましてや、異言の練習などというものは意味が分かりません。
霊的な体験と言われるものは、一方的な主の恵みなのです。そして、それは人それぞれに違った形で与えられるのではないでしょうか。内気な人と積極的な人では、物事の受け止め方が違います。同じような反応もしません。
霊的な体験も、人それぞれに違った体験の仕方があるでしょうし、同じような体験であったとしても、ある人はそれを霊的体験として重要に捉え、別の人はたまたま起こったことだと捉えるかもしれません。
捉え方、受け止め方が違っていたとしても、神が与えられたものであるという事実に違いはありません。積極的に捉える人もいれば、消極的に捉える人もいるのです。そして、神はそれらに対して、一つの答えを求めるようなお方ではないと思うのです。
パウロにとって大切なものは、そのようなものではなかったようです。もちろん最初からそうだったとは限りません。人生という歩みの中での経験によって、最適な時期にそのような捉え方へと導かれていったのだと思います。
そして、パウロは「自分が誇れるのは自分の弱さだけだ」と語っています。多くの場合、強さや得意とするものを誇っている時は、突っ走ってしまい、周りが見えなくなることが多いと思います。そのような時には、気付かないうちに周りの人を傷つけてしまうことがあるようなのです。
パウロもそのような経験を通して、自分の弱さを認め、主の前に砕かれるという経験をしたのです。そして、その時、聖霊が働いて下さったのです。
【秘められた強さ】
パウロの弱さというのは、肉体的な弱さだったと考えられています。具体的にどのようなものだったのかは、はっきりとは分かりません。しかし、何かの持病を持っていたようなのです。
パウロの敵対者たちにとっては、それは否定的な意味での「弱さ」であり「カッコ悪さ」以外の何ものでもありませんでした。パウロ自身も、その「弱さ」を取り除いてくれるように、何度も何度も祈ったと告白しているのです。
8節を見ると「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」と告白しています。ここには「三度」と書いてありますが、言葉通りに三回しか祈らなかったという事ではありません。聖書の中には象徴的な意味を持つ数字というのがいくつか出てきます。「三」という数字も象徴的に使われることの多い数字なのです。
パウロは「三度願いました」つまり「三度祈った」のです。一生懸命に何度も何度も祈り続けたという事です。どのような病気、弱さなのか具体的には分かりません。しかし、痛みがあったのかもしれません。その弱さのゆえに、何らかの不自由さを抱えていたのかもしれません。とにかく取り除いてほしかった。しかし、神の答えは「わたしの恵みは、あなたに十分である」というものだったのです。
この答えを聞いたパウロはどう思ったでしょうか。パウロに限らず、私たちは自分の弱さをカバーするために強がってしまいます。相手に弱みを見せないように強がって、自分を強く、大きく見せようと虚勢を張るのではないでしょうか。
しかし、そのようなものは本当の強さではありません。虚勢を張ったとしても、それは本物ではないので、いつかはボロが出てしまうのです。そして、その強さと思い込んでいるものは、時が来れば崩れ去ってしまうのです。
本当の強さというものは、神の前に弱さをさらけ出し、自分の無力さを認めて、降参しなければならないのではないでしょうか。前にも言いましたが、お手上げです。私にはもう何も成す術がありません。しかし、神に不可能はないという言葉を信じますから、何とかしてくださいと明け渡すことが必要なのです。
自分を中心にするのではなく、自分の心の王座を神に明け渡した時、神の力が現わされるのではないでしょうか。
祈 り
賛美歌 新生604 主を仰ぎ見れば
献 金
頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷
後 奏
2024年6月30日 主日礼拝
投稿日 : 2024年6月30日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー