前 奏
招 詞 ヘブライ人への手紙11章9節
賛美歌 新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
賛美歌 新生124 この世はみな
主の祈り
賛美歌 新生456 恵み深きみ声もて
聖 書 創世記25章27~34節
(新共同訳聖書 旧約P39)
宣 教 「生きるために」 宣教者:富田愛世牧師
【決めつけ】
今日からエサウとヤコブの物語が始まりますが、今回あらためて、聖書を読みながらエサウはこのような人、ヤコブはこのような人、というように決めようとする自分に気付かされました。若いころはアブラハム、イサク、ヤコブとイスラエルの族長は続いていくので、ヤコブの事をひいき目で見て、エサウについては食べ物に目がくらんで、長子の権を手放す、浅はかな男だとみていました。
しかし、年を重ねるにつれて、ヤコブのずるさが鼻につくようになり、反対にエサウについては独立心が旺盛で、自分の力で何事も切り開くというカッコよさを感じるようになりました。
いずれにしても、それぞれを枠にはめ、人となりを決めようとしていました。しかし、それは私に限ったことではなく、多くの人が同じように決めたがるのではないかと思うのです。それも二者択一的に決めたいという感情が強いような気がします。そして、そのような思いは人間の本性なのかもしれないのです。
しかし、決めるとはどういうことなのでしょうか。決めるという言葉の類義語を調べると「決断、決意、決心、決定」といった言葉が挙げられ、割と好感を持つような言葉ではないかと思います。積極的に用いられるような言葉が多いのです。
そして、何かが決まると落ち着くのではないでしょうか。反対に決まらないと落ち着かないし、不安になってくるのではないかと思うのです。不安というのは、先が見えない、明確な対象を持たない怖れの感情だと言われます。同時に、不安とは生きるための防衛反応でもあるわけです。でも、その不安を解消するために、何かを決めていかなければならないのです。
話を戻して、エサウはこういう人、ヤコブはこういう人と決めることは、この先、この物語を安心して読み進めるために必要なことかも知れません。しかし、もし、決めたとおりにならなかった場合、もっと大きな不安が襲ってきます。そう考えると決めつけること自体、非常に不安定なものだと気付かされるのです。
決めることは不安を取り除くことですが、別の面も持っています。それは自分の都合に合わせようとする気持ちです。つまり、自分が主となって決めるという事です。自分が主になる、もう少しはっきりと言うならば、自分を決定者、裁判官、そして、神とするという事なのです。
【エサウの人物像】
なぜそんなことを言ったのかというと、エサウはこんな人、ヤコブはこんな人と決めつけてしまうと、物語の中で本当の二人の姿が見えなくなる恐れがあるからです。決めるのは私たちのすることではなく、神が決めてくださるのです。私たちは、ここに記録されている事実を読み、悔い改めたり、気付かされたりする二人の姿から、神のメッセージに触れることが出来れば幸いなのではないかと思うのです。
それでは、良い人とか悪い人とか、そのようなことは抜きにして、聖書に記録されているエサウとヤコブについて、出来るだけ客観的に見ていきたいと思います。
エサウは27節にあるように「巧みな狩人で野の人」と書かれています。この「巧み」という言葉はヘブライ語で「知識がある」という意味があるようです。「知識がある」という時、その知識はどのように手に入れるのでしょうか。
おそらく現代人の多くは、どこかで、誰かから、教えてもらうということをイメージすると思います。しかし、知識というものは、どのように手に入れたかによって、その価値は変わってしまいます。
学校での学習と同じように、机の上だけで、誰かに教えてもらって手に入れる知識と、実際に自分で経験し、失敗を繰り返して得た知識とでは、その人の中で価値が違ってくると思うのです。
また、その知識の用い方も違ってくるのではないでしょうか。知識というものは、ただ持っているだけでは、宝の持ち腐れになってしまいます。もちろん、たくさんの知識を蓄える時期というものもありますから、一概には言えないかもしれません。しかし、いつまでも持っているだけだとするなら、価値がなくなってしまいます。
教えてもらって得た知識も大切ですが、実際に経験して手に入れた知識は応用することに対して、より有利に働くのではないでしょうか。「巧みな狩人」という言葉は「狩りを知っている」と訳すこともできます。
エサウは、きっと若い頃からの山に出かけて行って、遊びの中で狩りをしていたのではないでしょうか。その経験によって有能な狩人へと成長したのだと思います。ただ、自然相手なので、先を読むような計画性には乏しかったと思います。その代りに「対応能力」には長けていたのではないでしょうか。
【ヤコブの人物像】
そのようなエサウに対してヤコブはどうだったのかというと「穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」と書かれています。ヤコブの性格は「穏やか」とありますが、この言葉も「無垢」とか「純」と訳せる言葉が使われています。
しかし、この後に続く、ヤコブの様々な言動を見るならば「無垢」とか「純」という言葉を思い浮かべるのは、非常に難しい気がします。
「純な人」とか「無垢な人」というと、邪念や私欲のない人をイメージするのではないでしょうか。ウソをついたり、人を貶めたりするよう人が「無垢な人」や「純な人」と呼ばれることは、まずありません。その正反対だと思うのです。
この「無垢な人」という表現を少し変えて「無垢で子どものような心の人」という言い方をすることがあると思います。「無垢」と「子どものような心」が同義語のように使われることがあります。そう考えるならば、何か欲しいものがあれば、子どものように一心に欲しいと求めることも「無垢」という概念の一面なのです。
ヤコブの欲しいもの、それは「長子の権利」でした。ですから、それを手に入れるために、純粋に、まっすぐに向かっていったのです。
そして、「天幕の周りで働くのを常とした」ということは、家業を継いだというように考えることが出来ます。天幕とは当時の住居形態ですから、家にいたという事です。父であるイサクの仕事は牧畜でした。ですからヤコブが家の仕事を継いでいたと考えるのが自然だと思うのです。
しかし、もっと自然な形であったなら、長男であるエサウが父の仕事を手伝い、牧畜をその生業とすることの方が自然だったのかもしれません。しかし、エサウは「巧みな狩人」として独立していたようなのです。そのように見るならば、ヤコブが家督を継ぐ方が自然だったのかもしれません。
【生きるために】
30節からは、エサウとヤコブとの会話が記録されています。エサウは狩人で、この日まで、しばらくの間、狩りに出かけていたのでしょう。しかし、何の獲物もなく、疲労困憊、空腹を抱えて帰ってきました。いつも獲物がなかったわけではないでしょう。しかし、狩猟生活をしていると、このような日も珍しくはなかったと思います。
エサウは何日も、野山を駆け回って獲物を探したでしょう。しかし、この日は何の獲物もなく、疲れ切って、お腹を空かせて帰って来たのです。すると、そこには食事の支度をしているヤコブがいたのです。ヤコブはレンズ豆を煮ていました。この場面には、他の家族は登場しませんが、父ヤコブの好物を作っていたわけではありません。普段の何でもない料理を作っていたのです。
きっとエサウが帰ってくる時は、獲物を持って帰ってくるので、父イサクの大好きなごちそうが並んだのではないでしょうか。しかし、この日は違っていたのです。レンズ豆だったのです。
それでも空腹で疲れ切っているエサウにはごちそうだったかもしれません。ヤコブに向かって「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい」と頼んでいるのです。そして、ヤコブの答えは「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」というものでした。
エサウは「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と答え、長子の権利を譲るという誓いと引き換えに食事を得ることが出来たのです。この食事は「死にそう」なエサウを生かすものでした。
ヤコブは普段通りの食事を作り、エサウは獲物が取れたとするならば、特別な日の食事を提供しようと思っていたのに果たせなかったのです。どちらが良いとか悪いという事ではなく、どちらもそれぞれの生き方なのです。
イソップ童話の「アリとキリギリス」の話しを知っているでしょうか。この話は勤勉に働くこと大切さが語られていますが、似たような話が新約聖書にもあります。「マルタとマリア」の話です。アリとマルタ、キリギリスとマリアというように例えるとお叱りを受けるかもしれません。しかし、エサウとヤコブはそれぞれの生きる道を歩んでいるのです。エサウが長子の権利について軽んじたということについて、今日は触れません。どちらが良い選択をしたかという事ではなく、二人とも過酷な世界で生きた二人であるということを心に留めておきたいと思います。
祈 り
賛美歌 新生568 この旅路は険しいけれど
献 金
頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷
後 奏
2024年7月14日 主日礼拝
投稿日 : 2024年7月14日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー