前  奏
招 詞 テトスへの手紙2章13節
賛美歌 新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
賛美歌 新生 59 父の神よ 汝がまこと
主の祈り
賛美歌 新生506 主と主のことばに
聖 書 創世記27章25~29節
                   (新共同訳聖書 旧約P43)
宣 教 「祝福を受けるため」    宣教者:富田愛世牧師
【物語の概略】
 今日は「祝福を受けるため」というタイトルを付けました。タイトル通り「祝福」ということが大きなテーマになっているわけですが、昨年の11月に同じ箇所ではありませんが、27章1~10節までで同じテーマでお話をしていました。ですから同じ話にならないように、違った角度から読んでいきたいと思います。
 初めに27章に書かれている物語の概略を説明したいと思います。1節を見ると分かるように、イサクは年老いて目が見えなくなりましたが、きっとそれだけではなく体力や気力も衰えてきたと感じていたのではないかと思います。そこで長子であるエサウに、イサク自身からの祝福を与えようと考えたわけです。
 2節を見ると、自分はいつ死ぬか分からない、死ぬ前においしい料理を食べたいとエサウに頼むのです。そして、食べ終わったら祝福を与えたいと語っているのです。
 そのような会話を母であるリベカが盗み聞きするのです。そして、その話をヤコブのところに持ってきて、父イサクからの祝福を横取りするようにそそのかすのです。しかし、いくら年老いて、目が見えなくなっているからといって、自分とエサウでは違いがあり過ぎるので、騙すことはできないだろうとヤコブは尻込みするのです。
 そのようなヤコブに対して、母リベカは腕と首にヤギの毛皮を巻き付け、エサウの毛深さを、そして、エサウの服を着てエサウの匂いを、さらに自分がおいしい料理を作るから、それでイサクを騙すことが出来ると説得して、ヤコブに父の祝福を横取りするようにけしかけるのです。
 ヤコブが父イサクのもとに行くと、イサクは「お前は誰だ」と質問します。この時点でエサウではないと疑っていたような気がします。しかし、ヤコブは母リベカに言われたとおりに毛皮のついた腕を差し出し、父イサクを騙しました。すっかり騙されたイサクはヤコブに祝福を与えてしまうのです。
【祝福とは?】
 さて、この箇所でのテーマは祝福ですが、祝福とは何なのでしょうか。前回、昨年の秋は一般論としての祝福から話を進めましたが、今回はアブラハムから続く族長物語という流れから見ていきたいと思います。
 族長物語の中で語られている「祝福」について、最初に出てくるのは12章2節から3節に書かれている言葉で、そこには「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」と書かれています。
 また、少し飛んで22章には、息子イサクを献げるように試された場面が描かれていますが、神はアブラハムが神の命令に従ったことを認めた後「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」と記録されています。
 次にイサクの場合はどうかというと、カナンの地が飢饉に襲われた時、隣国ペリシテに行くのですが、26章2節からを見ると「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである。」と約束されているのです。
 このように見ていくと、ここまでに語られている祝福とは、物質的なもの、財産であったり、子孫を増やしたりという、非常に具体的な、目に見えるものが前面に押し出されているのです。
【祝福の本質】
 これだけを見ると、祝福とは物質的なものが与えられることのように受け止められるかもしれません。しかし、これらは祝福の一面であって、すべてではありません。もちろん当時の人々にとっては、非常に大切な生きるために必要不可欠なものや事柄だったわけですが、さらに大切なことがあるのです。
 アブラハムの時は「主の言葉に従った」ということが前提として語られているのです。12章では、主の言葉に従ってハランの地を旅立ち、まだ見ぬ地であり、約束の地であるカナンへと旅立ちました。22章では主の言葉に従って息子イサクを献げようとしました。
 アブラハムにとって、主の言葉に従うということと、その結果としての目に見える形での物質的な財産が与えられるということが、一対になっているのです。
 イサクにおいてはどうだったのかというと、先ほどの26章3節では「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し」と書かれています。また、26章25節では、ペリシテ人との間に井戸を巡る争いがありましたが、その争いに終止符が打たれた時「「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす わが僕アブラハムのゆえに。」という言葉が与えられています。
 イサクとの関係においては、祝福が与えられることと「主が共にいる」ということが、一対になっているのです。イサクにとっての祝福とは、この言葉通り、主が共にいてくださるという事なのではないでしょうか。
【イサクの祝福】
 それでは、ヤコブが求めていたものは何なのでしょうか。それは長子の権利でした。聖書における長子の権利は、申命記21章17節に具体的な配分が記録されていて、子どもが複数いる場合、長子は二倍の財産が配分されるというのです。子どもが二人だった場合は財産を三分割し、長子は三分の二、もう一人は三分の一を相続するという事です。しかし、古代メソポタミア地域においては、相続権という概念はなく、遺言の権利が広く用いられていたようです。
 エサウとヤコブの関係において、長子の権利は25章33節でエサウからヤコブへと移っているのです。しかし、父であるイサクにその事実は伝わっていなかったのかもしれません。イサクは27章4節で「わたし自身の祝福をお前に与えたい」と語っています。この「わたし自身の祝福」が何を意味しているのかは定かではありません。
 しかし、これは先ほどまでテーマとしていた、神からの祝福ではなく、イサクの個人的な「わたし自身の祝福」なのです。そう考えるならば、これは遺言だったのかもしれません。
 この時点では明確な形の律法は、まだありませんでした。ですから申命記に記されている長子の権利は確定されたものではなかったかもしれないのです。ただ、話題の中に出てきているので、まったく概念がなかったという事ではありません。だからイサクは遺言として、長子の権利をエサウに授けることによって、確定させようとしたのではないでしょうか。
 イサクの「わたし自身の祝福」とは、遺言でもあったのです。そして、イサクの願いは28節にあるように「どうか、神が 天の露と地の産み出す豊かなもの 穀物とぶどう酒を お前に与えてくださるように」ということだったのです。つまり、家督を継いで欲しかったのではないでしょうか。
 エサウは父イサクの仕事を継いでいませんでした。エサウの得意分野は野に出て狩りをすることでした。そして、神はそれを良しとしたのです。ヤコブは天幕の周りで働いたのです。つまり、家業を継いでいたのです。
 イサクの思いに答えていたわけではないかも知れません。しかし、エサウの生き方もヤコブの生き方も、神の計画に従った生き方だったのではないでしょうか。

祈 り
賛美歌 新生576 共に集い
献 金
頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷
後 奏