前 奏
招 詞   コリントの信徒への手紙二5章17節
賛美歌   新生  1 聖なる 聖なる 聖なるかな
開会の祈り
賛美歌   新生329 全能の神はいかずちも
主の祈り
賛美歌   新生515 静けき河の岸辺を
平和交読文
賛美歌   神さまが呼ばれる            聖歌隊
聖 書   創世記32章23~29節
                      (新共同訳聖書 旧約P56)
宣 教   「新しい歩み」    宣教者:富田愛世牧師
【祝福】
 日本では8月は特別な月となっています。8月6日は広島に原子爆弾が投下された日、9日は長崎に原子爆弾が投下された日、そして、15日は「終戦の日」となっていますが、正確には14日に日本がポツダム宣言を受け入れ、敗戦が決まり、それを天皇が「玉音放送」という形で国民に知らせた日という事です。
 この敗戦という経験を通して、日本は二度と戦争をしないという誓いを立て、新しい日本国憲法の前文に、それを明記しました。また、9条でも、戦争の放棄と共に軍隊を持たないことや交戦権の否認が明記されています。
 こういった背景の中で、キリスト教会もイエスが「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と語られた言葉に従い、平和を求め、平和について考える時を持つようになりました。
 市川大野教会でも今日は「平和を覚える日の礼拝」となっていますので、平和という大きなテーマの中で聖書を読んでいきたいと思っています。
 ところが、今日、与えられている聖書は創世記32章23節からで、新共同訳聖書の小見出しには「ペヌエルでの格闘」と書かれています。平和を覚える日に「格闘」という言葉は似合いませんが、何かを奪ったり、誰かを傷つけるという事ではなく、祝福を得るための闘いと捉えて読んでいきたいと思います。
 ヤコブは兄エサウから逃げるために、ハランに住む叔父ラバンのもとに行きました。そこで20年の時を過ごし、二人の妻をめとり、たくさんの財産を手に入れました。そして、もう一度、神の言葉に従ってカナンの地に帰ることになりました。その途中、カナンの地を目の前にして、ヤボク川を渡った時の出来事が記録されています。
 夜になり、何者かがやって来て、ヤコブと格闘することになりました。しかし、決着がつかないまま夜明けを迎えようとした時、ヤコブは祝福を与えてくれなければ離さないと言って、祝福を手に入れたことが記録されています。
 祝福とはいったいどのようなものなのか。聖書を見るときそれぞれの時代において、少しずつ変化しています。ヘブライ語聖書において祝福は、物質的な幸福の量の多少で測ることが出来ると考えられていました。子孫が多くなることや仕事の繁栄などが祝福を受けたことの証明でした。
しかし、前回の31章では祝福を受け、財産が増えたことによって、人から妬まれたり、憎まれたりすることもありました。つまり、物質的な財産が増えることが幸福になることとは限らないということも見てきたのです。
 新約聖書ではイエスにおいて啓示された神の祝福が、ヘブライ語聖書で捉えられている物質的な事柄よりも霊的な事柄として捉えられるようになりました。
【神との闘い】
 そのような祝福を受ける方法は実に様々です。ある場面では、神の祝福は、一方的に与えられるものですが、いつでもそうだとは限らないようなのです。ただ待つだけでは与えられない時もあるのです。
 ヤコブは「祝福」にこだわり、様々な行動を起こしてきました。つまり、ヤコブにとっての祝福は、ただ待つだけで与えられるものではなかったようなのです。今まで読んできたので、よく分かると思いますが、最初の祝福は、父であるイサクを騙し、エサウに与えられるはずだった祝福を奪っているのです。そして、今日の箇所では闘い、勝ち取るものとなっているのです。
 ただ、神との闘いという表現は必ずしも正確とは言えません。25節に登場してヤコブと格闘する「何者か」が誰なのかを聖書ははっきりとは語っていません。神なのかもしれませんし、神の使い、神の人かも知れません。また、闇夜に紛れてエサウがやってきたと解釈することも可能なのです。
 そして、格闘という表現も、聖書を読むとレスリングのような、肉体同士のぶつかり合いをイメージしますが、ヤコブが心の中に抱えていた不安との闘いをこのような形で表現したのかもしれません。
 どちらにしても、29節を見るとヤコブは実際に神の人と格闘し、祝福を勝ち取りました。この祝福とはイスラエルという新しい名が与えられること。つまり、新しい時代に入ることを意味します。
 現代においてこの闘いとは、自分の中にある、古い価値観との闘いなのです。礼拝出席、献金、奉仕などをするとき私たちは古い価値観と闘い、新しい価値観によって、神の計画を追い求めなければなりません。
 さらに、もう一つ、この格闘の中でヤコブが得たものがあります。ただ、これは得たくて得たものではなく、ある人にとっては与えられたくないものかもしれません。
 それは、足を痛めてしまったことによる「不自由さ」という事なのです。不自由さなどは祝福ではないと思われると思います。自由が与えられる事の方が祝福にふさわしいと私たちは考えると思うのです。しかし、それは新しい価値観ではありません。古い価値観に留まっているうちは、神の祝福を理解することが難しいのです。
 不自由さの中で経験することもたくさんあるのではないでしょうか。ただ、私がここで語れるのは経験からではなく、理論的なものなので、受け入れることが出来ないかもしれません。実際に不自由な思いをしてる方にとっては、腹立たしい言葉になってしまうかも知れません。
 しかし、この不自由さを自らの身に負うことによってしか理解できない、神との関係というものもあるのではないでしょうか。そして、そこで経験する神の助けと護りこそが祝福なのではないでしょうか。
【神が共にいる】
 そのように勝ち取った祝福も、ある人にとっては価値のないもののように思えます。ヤコブは多くの家族に恵まれ、財産も与えられ、何不自由のない生活をしていました。しかし、神の言葉によってカナンへと旅立つのです。ただ、何もかも捨てて旅立ったわけではなく、すべての財産を携えての旅立ちでした。つまり、神からの祝福の中での旅立ちだったのです。
 しかし、ヤボクの渡しを渡った夜、ヤコブは神の人からの祝福にこだわりました。それは物質的なもの以上に、霊的な祝福を受けようとする闘いだったのです。もしかするとハランへの逃亡の旅の始まりに、ベテルで受けた祝福の言葉「わたしはあなたと共にいる」という言葉が欲しかったのではないでしょうか。
 兄エサウがすぐそこにいるという恐れと不安の中で、ただ一つ安心を得ることのできるものは「神が共にいる」という言葉だったのではないでしょうか。
 ヤコブがここで受けた祝福は「イスラエル」という新しい名前と不自由さです。イスラエルという名前の意味ははっきりしません。最近では「神が支配される」という意味があると言われていますが、その他にも「神が争われる」とか「神が護られる」と言われてきました。
 ヤコブの物語を見ていくなら、神の支配とか神の護りという意味が強いのではないかと思わされます。そして、神の支配や護りということは、神が共にいてくださることの結果でもあるように思えるのです。
 また、不自由さということに関しても、否定的に捉えられることの多い言葉ですが、不自由である故に神に頼らなければならない現実を実感できるのかもしれません。これもまた、神が共にいてくださることの結果なのではないでしょうか。
 ヤコブ一族は、この後、エサウに会わなければなりません。それは大きな恐れと不安の出来事なのです。しかし、そこからが新しい歩みの始まりでもありますし、神が共にいてくださることによって成し遂げられるのではないでしょうか。

祈 り
賛美歌   新生550 ひとたびは死にし身も
献 金   
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷  
後 奏