前 奏
招 詞 ローマの信徒への手紙8章28節
賛美歌 新生 20 天地治める主をほめよ
開会の祈り
賛美歌 新生378 海よりも深い主の愛
主の祈り
賛美歌 新生461 迷い悩みも
聖 書 創世記39章19~23節
(新共同訳聖書 旧約P69)
宣 教 「地獄で仏」 宣教者:富田愛世牧師
【選民意識】
今日は「地獄で仏」というキリスト教会には相応しくない宣教題をつけてしまいました。周りからの反応はどうかな?と期待しましたが、何の反応もありませんでした。私自身が「どうかな?」と感じていただけなのかもしれません。ただ、相応しいとか、相応しくないという基準はどこにあるのかと考えさせられました。
相応しさということから、今日は「選民意識」という事について初めに考えてみたいと思います。今、パレスチナとイスラエルの問題が大きく取り上げられていますが、イスラエル問題は70年位前から続いている問題ですし、ユダヤ人の問題については2,000年前から続いている問題だと思います。
ユダヤ人問題について触れると、様々な視点があるので、簡単に触れることが出来ませんし、その理由や根拠については、複数の問題が複雑に絡み合っているのでもっとややこしくなってしまうだろうと思います。いくつかあるうちの一つとして、ユダヤ人の選民意識というものが、多くの問題を引き起こしてきたことに間違いはないと思うのです。
ヘブライ語聖書を見ても、様々な個所で、神がイスラエルの民を選んだという言葉が出てきます。確かに神は全人類の救済のために、イスラエル人を選びました。しかし、それはイスラエル人が優秀だからとか、正しいからという事ではありません。ところがいつの間にか、イスラエル人は自分たちが優秀な民族であるというような選民意識を持つようになってしまいました。
聖書を見ると、初めにアブラハムが神から「カナンの地」へ行くよう命じられ、それに従ったことによって義と認められました。アブラハム一族は流浪の民として、現代的な言い方をすれば、難民としてカナンの地へと向かったわけです。途中様々な困難がありましたが、その都度、神が護り、助けてくださいました。
そのように神に守られているということを、他の野蛮な民族と違って、自分たちが優れているからだと勘違いするようになってしまったのです。それが選民意識、さらには優生思想へとつながっていくのです。
【神の選び】
そのようなユダヤ人の選民意識というものが、キリスト教の中にも受け継がれているのです。クリスチャンは特別だ。神さまから選ばれていると思っています。確かに私たちは選ばれて信仰を持つようになったのかもしれません。しかし、それはユダヤ人と同じように、何かが優れているから選ばれたのではありません。
神が、その救いの計画の中で、福音を証しする者として選ばれたという事なのです。福音宣教という働きを担う一人として、私たちは選ばれたという事なのです。
時々、教会の中での会話で「あの人はクリスチャンだから信用できる」とか「クリスチャンだから・・・」という言葉を聞きます。反対に、人道的に素晴らしい働きをしている人に対して「でもクリスチャンではないから」という言葉も聞きます。連帯感や仲間意識ということで、理解はできますが、なんか腑に落ちないなと思ってしまうのです。
クリスチャンで有能な人はたくさんいます。しかし、クリスチャンではない人の中に有能な人はもっとたくさんいるのです。日本はクリスチャン人口が全体の1パーセントに満たないので当然かもしれません。愛の人も、優しい人も、また、それぞれの信仰において、信仰的な人もクリスチャン以外にたくさんいるのです。
にもかかわらず、多くの場合、聖書を読みながら、この人は神を信じているから、神に用いられる。しかし、この人は神を信じていないのだから、神は用いないと思い込んでいるような気がします。
今日の箇所においてもヨセフは神に用いられるけれど、エジプト人で、エジプトの太陽神を信じているであろうポティファルは神に用いられることはないと思い込んでいないでしょうか。5節を見ると「主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された」とあるので、ヨセフが神に用いられ、神からの祝福を受けているから、そのおこぼれでポティファルも財産を増やすことが出来たのではないかと思ってしまうことがないでしょうか。
神の選びというのは、私たち人間の知恵をはるかに超えたものです。もっと大きく、もっと自由に働かれるものなのです。ですから、神を信じているか、いないかなどというような小さなことに左右されないのです。誰でも用いることが出来るし、誰でも神の意思によるならば救われるという事なのではないでしょうか。
【試練】
ヨセフは神から選ばれ、素晴らしい働きをするように用いられる人間です。しかし、神に選ばれ、用いられるということは、すべてが順風満帆、うまくいくという事ではありません。時には、大きな試練にも合うのです。そして、大きな働きを任されている人に対して、神はその働きに見合った試練を与えられるのではないでしょうか。
ヨセフについては6節の後半に「顔も美しく、体つきも優れていた」と記録されています。私はモデルのような人と比べるなら、太っていて、背も低いのでそれがコンプレックスでした。もっと背が高くて、腹筋が割れていて、イケメンだったら、人生バラ色になったかもしれないと思うことがあります。
しかし、ヨセフは「顔も美しく、体つきも優れていた」からポティファルの妻から誘惑されるようになったのではないでしょうか。ヤコブにも似たようなことがありました。神からの祝福によって裕福になりましたが、それが理由でラバンとその息子たちから妬まれるようになりました。
私たちの常識やイメージで祝福だと思えるような事が原因となって、災難がふりかかってくるという事があるのです。そして、それらは試練として、私たちに与えられるのではないでしょうか。ここで、試練と一言で語ってしまうと、何となく理解できるような気がしますが、試練とは何なのでしょうか。
以前、ある礼拝堂を持っていない教会の牧師さんから電話があり「バプテスマ式のために礼拝堂を貸してくれないか」と相談を受けました。バプテスマを実施する日が土曜日だったので、お貸しすることにしました。ところが、当日、約束の時間になっても来られないのです。その当時は携帯電話のない時代でしたので、連絡の取りようがなく、待っていました。1時間くらい遅れて、その教会の方たちが来たのですが、どうも道が渋滞していたようなのです。ところが、その教会の牧師さんは「サタンの試練に会って遅れてしまいました」と言われたのです。
この方は簡単に試練と言うのですが、それが神からの試練なのでしょうか。渋滞を予想して、少し早く出発すれば良いだけの事だと、私には思えるのです。自分にとって、都合の良くないこと、苦しいこと、痛いこと、恥ずかしいこと、そういったものやそういった事に出会うという事と、神からの試練にあっているという事は違うような気がするのです。
今日の箇所でヨセフに与えられた試練とは、ポティファルの妻からの誘惑です。そして、もう一つは、無実の罪で投獄されるということです。
【地獄で仏】
さらに、そもそもの話として、ヨセフがエジプトに売られてしまったということも、ヨセフにとっては試練だったのです。ヨセフは自分が招いたわけでもなく、自分ではどうにもしようがない試練に会っているのです。今日の宣教題は「地獄で仏」としました。それはヨセフにとって、エジプトの生活は、地獄に落とされたような事だと思うのです。
奴隷としてエジプトに売られ、そのヨセフを買い取ったのがポティファルでした。このポティファルという人物が、素晴らしい人物で、きっと人を見る目、その人を見抜く力を持っていたのでしょう。ヨセフの働きを正当に評価し、奴隷であるにもかかわらず、家の全財産を預けるほど、信頼しているのです。
ヨセフはポティファルの妻から誘惑され、その狂言によって無実の罪を着せられました。奴隷が主人の妻に性的ないたずらをしようとしたならば、その場で殺されてもおかしくない時代でした。しかし、ポティファルは怒りながらも「王の囚人をつなぐ監獄」に投獄しているのです。
さらに、監獄の中でも、主が共にいてくださったので、監守長から厚遇され、監獄内の管理を任されるようになるのです。これも常識的にはあり得ない話だと思うのです。主人の妻に性的ないたずらをしようとした奴隷を、監獄の中であったとしても、そこの管理者にするなど有り得ません。
ヨセフは、エジプトに売られるという地獄、主人の妻から誘惑されるという地獄、そして、監獄に捉われてしまうという地獄を経験するのです。ところがその地獄の中で仏に出会うのです。ここでは敢えて「仏」という言い方をします。何故ならポティファルは異教徒だと思われるからです。聖書にはポティファルが異教徒だとは書かれていません。しかし、当時のエジプトの高官が太陽神を信仰していないはずがないと思うのです。
神は試練に会って、地獄にいると思えるような時に、助けを与えられるのです。そして、その助けはクリスチャンとは限らないのです。仏教徒かも知れませんし、イスラム教徒かもしれません。つまり、神の働きは、私たちの小さな常識をはるかに超えて大きく、そして、自由に働かれるという事なのです。
祈 り
賛美歌 新生471 汚れと恥との
献 金
頌 栄 新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷
後 奏
2024年9月8日 主日礼拝
投稿日 : 2024年9月8日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー