前 奏
招 詞   使徒言行録7章17節
賛美歌   新生 20 天地治める主をほめよ
開会の祈り
賛美歌   新生363 キリスト教会の主よ
主の祈り
賛美歌   新生388 主よわが心に
聖 書   創世記45章1~8節
                     (新共同訳聖書 旧約P81)
宣 教   「明らかになる!」    宣教者:富田愛世牧師
【飢饉の7年】
 前回はヨセフがファラオの見た夢を解き明かしたことによって、ファラオから認められ、エジプトにおいてナンバー2の地位に就いたという箇所でした。ヨセフはナンバー2になったからと言ってあぐらをかいていたわけではなく、豊作の7年間、エジプト中を回り、後から来る飢饉のための万全の備えをしました。また、プライベートでは二人の子どもが与えられたというところまでの話でした。
 今日の箇所は、その後、7年の飢饉がやってきた時のことになります。飢饉が訪れてから2年目の出来事であるという事が6節を見ると分かります。そして、この飢饉は、エジプトだけではなく、近隣の国々においても大変大きな影響を与え、食料が不足しました。
 カナンの地に住んでいたヤコブ一族も例外ではなく、飢饉のために食料が不足し、噂を聞きつけエジプトへと食料の買い出しに出かけたようです。
 エジプトで食料を管理していたヨセフのもとに、兄たちがヨセフだとは知らずにやってきました。そして、食料を分けてくれるように頼むのですが、その時、ヨセフはすぐに、彼らが兄たちであるという事に気付いたようです。しかし、兄たちには分かりませんでした。
 そして、ヨセフは兄たちに向かって「スパイではないか」との疑いをわざとかけ、質問しながら、家族の様子を聞き出しました。そして、食料の買い出しに来たのは10人の兄たちだけで、末の弟が父と一緒にカナンにいることを知るのです。
 ヨセフにとっては、最愛の弟であるベニヤミンが元気でいることを知ると、一刻も早く会いたいという思いが生じたのではないかと思うのです。ヨセフは兄たちのうち一人を牢につなぎ、後の者はカナンに帰り弟のベニヤミンを連れて来るように命じるのです。
 この時、兄たちは昔ヨセフをエジプトに売ってしまったことを思い出し、今、その罰を受けているのだと互いに話しました。兄たちにとって、過去に犯してしまった罪が今でもトラウマとして、彼らの心の奥底に染みついていたのです。
 また、父ヤコブに対しては、ヨセフは野獣に襲われたと、嘘をついていたのですから、そのことからも良心の呵責に、ずっと悩んでいたのではないでしょうか。
【ヤコブの心】
 兄たちは、カナンに帰り、父ヤコブに事の次第を告げます。そして、ベニヤミンを連れてエジプトに行かなければ、人質として捕らえられているシメオンがどうなるか分からないし、食料を得ることもできないと答えるのです。
 父ヤコブは42章36節で「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ」と語り、ベニヤミンを手放すことを拒みました。
 それに対してルベンは、どんなことがあってもベニヤミンを連れて帰りますから、私に任せてくださいと頼むのです。このルベンの申し出に、父ヤコブがどのように答えたのかについては、何も記録されていません。
 しかし、43章を見ると、飢饉がひどくなってきて、最初にエジプトから持ち帰った食料が底をつき始めた頃、父ヤコブは、もう一度、エジプトへ行って食料を調達してくるように息子たちに命じているのです。
 そして、今度はユダが父ヤコブに対して「ベニヤミンを連れて行かなければ、食料を手に入れることはできません。」と答え、自分が責任をもって、必ずベニヤミンを連れ帰ると約束するのです。すべての責任を自分が負うと覚悟を決めているのです。
 すると父ヤコブは、今までの2倍の代金と贈り物を用意して、それらを渡せばベニヤミンを捕らえることをせず、シメオンの事も解放してくれるのではないかと提案するのです。そして、それでもだめなら、二人の子どもを失ってもよいとヤコブも覚悟を決めるのです。
 このようなやり取りがあって、兄たちはもう一度エジプトへ向かいました。道中も不安でいっぱいだったでしょうが、エジプトに着くと一行はヨセフの家へと招待されるのです。そして、ヨセフにとって、ベニヤミンとの感動の対面となるのです。そして、ヨセフは気持ちを抑えきれず、一人、奥の部屋へ行って泣いたのです。
 この後、もう一つ、ヨセフが兄たちを試すような出来事があるのですが、そこまで話すと時間が足りなくなるので、結論から言うと、兄たちはヨセフをエジプトに売ってしまったことを後悔し、その罪をずっと心の中に抱えてきたこと、そして、今はそれらの過ちを心から悔いていることがヨセフにも伝わったようです。
【罪の恐ろしさ】
 ここで私たちが心に留めておかなければならないことがあります。それは罪を犯すことの恐ろしさです。
 この一連の物語を読んでいると、罪とは、まず兄たちが、弟ヨセフを妬んだという、妬みの罪が挙げられます。そして、ヨセフを憎み、殺してしまおうと考えた事、殺してしまうという大きな罪を犯すことには恐れがあるので、もう少し軽い罪として、エジプトに売ってしまう事、ヨセフが野獣に噛み殺されたと父ヤコブに嘘の報告をした事、他にも、あれこれ見つけだすことが出来ると思います。
 しかし、これらの罪は、一つの結果であって、罪そのものではありません。聖書が語るところの罪とは、神を神と認めないことです。神を認めないという事は、聖書に書かれている神ではない、他のものを神とすることです。その他のものとは、偶像や異教の神とは限りません。多くの場合は自分が神になるという事なのです。
 多くのクリスチャンは、自分は罪人ですと告白しながら、でも、それほど重い罪ではない、とか、あの犯罪者よりはましだ、などと考えてしまうことがあるのです。ヨセフの兄たちはヨセフを殺すことに躊躇し、エジプトに売ることにしました。それによって殺人という大きな罪は免れたと思うのです。しかし、殺人と人身売買と、どちらが大きな罪なのでしょうか。
 日本の刑法に照らし合わせて判断するなら、どちらかが重いという事になるかも知れません。しかし、神の目から見た時、どちらが重いという事ではありません。どちらも自分が判断を下す者となっている、つまり、自分が神になり代わっているという点において変わらない罪なのです。
 今、私は誰かに罪のレッテルを張ろうとしているのではありません。罪を犯すという事の恐ろしさを語ろうとしています。ヨセフの兄たちは、自分たちが犯してしまった罪の重さのゆえに、ずっとそのことが引っ掛かり、心に平安を得ることが出来なかったのです。それらはトラウマとなり、ずっと心の中に残ってしまうのです。普段は忘れているかもしれませんが、何かがきっかけとなって心の中に思い起こされてしまうのです。そして、私たちを悩ませるのです。
 それくらい罪とは厄介なものなのです。この罪から抜け出すには、きちんと向き合い悔い改めなければならないのです。「これくらい」と自分で判断した時点でアウトとなってしまうのです。
【心の解放】
 先ほど、もう一つヨセフが兄たちを試そうとした出来事があると言いましたが、それはベニヤミンの荷物の中に、ヨセフが用いていた銀の杯を忍び込ませ、ベニヤミンが盗んだと濡れ衣を着せてベニヤミンを捕らえ、奴隷にするという事でした。
 それに対して、ユダが自分をベニヤミンの身代わりにしてくれと頼みこむのです。父ヤコブにとってベニヤミンがどれほど大切な子であるかを丁寧に説明し、自分はどうなっても良い、しかし、父ヤコブとベニヤミンは不幸にしたくないという思いを告げるのです。自分がという自我の思いから解放された時、つまり、自分の罪深さを認め、罪から解放された時、ユダは心も解放され、他者のために生きる豊かさに気付いたのではないでしょうか。
 そして、ヨセフはユダの言葉に真実の思いを感じ、自分も真実を告白するように導かれたのだと思います。ヨセフは30歳でエジプトの大臣になるまで、ずっと傷つけられてきました。聖書を読む限りにおいては、その傷は表面には出てきません。しかし、心の奥底ではドロドロとした思いとして留まり続けたのではないでしょうか。
 ここでまた、被害者と加害者という形で見てみたいのですが、被害者は加害者からの謝罪がなければ救われないのでしょうか。もし謝罪がなければ救われないとするなら、救われる人は、もしかすると一握りで、大半は救われない人ばかりになってしまうのかもしれません。
 残念なことですが、加害者は、自分が加害者だと思っていないことの方が多いような気がします。満員電車で他人の足を踏んでも、それに気づかない鈍感な人が多いのです。自分の加害性に気付かないくらい鈍感で愚かな存在なのです。
 この時点で勝者はどちらなのでしょうか。勝ち負けではないのかもしれません。しかし、人間性として、優れているのはどちらの側の人間なのでしょうか。足を踏まれて「痛い」と感じる感性を持っている人間と、足を踏んでも、それに気づかず、自分は誰の事も傷つけていないと思い込んでいる鈍感な人間と、どちらが優れた人間性を持っているのでしょうか。
 私たちにはヨセフのような輝かしい業績はありません。しかし、安らげる場所があるなら、幸いなことです。一緒にいて安心できる人がいるなら、幸いなことです。そのような感性が与えられていることに感謝しましょう。そして、ヨセフは兄たちの再会の場面で神の計画の偉大さを賛美しています。この神の計画は私たちにも与えられている計画なのです。それは災いを与える計画ではなく、将来と希望を与えるものなのです。

祈 り
賛美歌   新生544 ああ嬉しわが身も
献 金   
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷  
後 奏