前 奏
招 詞   マタイによる福音書11章29節
賛美歌   新生 14 心込めて主をたたえ
開会の祈り
賛美歌   新生345 シオンの都よ ああ麗しき
主の祈り
賛美歌   新生519 信仰こそ旅路を
聖 書   エレミヤ書6章13~17節
                     (新共同訳聖書 旧約P1186)
宣 教   「立ち止まり、見渡せ」    宣教者:富田愛世牧師
【エレミヤの時代】
 エレミヤが活動を始めたのは、南ユダ王国でヨシヤ王の治世が始まってから13年目の事でした。ヨシヤ王は8歳で王となり、31年間ユダを治めたと記録されています。
 イスラエルやユダの王については列王記と歴代誌にそれぞれ併記されています。そして、ヨシヤ王からバビロン捕囚までは、列王記下22章以下と歴代誌下34章以下に記録されていています。ヨシヤ王はその治世の12年に異教の神々の信仰や聖なる高台と呼ばれる礼拝の場所、そして神々の偶像を取り除き、宗教改革を行ったようです。
 さらにその治世の18年に神殿の修復を行い、その際、律法の書が見つかり、それを読んだヨシヤ王は、女預言者フルダのところへ高官を遣わし、主の言葉を求めたのです。この時期、エレミヤが何をしていたのかについてはよく分かりません。ヨシヤ王による宗教改革が行われ始めた時期ですから、エレミヤの働きはあまりなかったのかもしれません。
 フルダという預言者は、使いの高官に対して、神の前にへりくだり、過去の王たちが行った神への背きの罪を悔い改め、真の神に立ち返るよう伝えました。その言葉に後押しされ、ヨシヤ王による宗教改革は、さらに進められ、ユダ王国は一時の平静を味わっていたようです。
 しかし、この時期、周辺の大国間における関係は緊張していました。中東地域を支配していたアッシリアに代わって、バビロニアやメディアという新興勢力が力を付け、対向してきたのです。ユダはアッシリアやバビロニアとエジプトの間に位置していたわけですから、どこに付くか非常に難しい選択を迫られていたと思います。
 そのような時、エジプトの王ネコがバビロニアと戦っていたアッシリアに対して援軍を送ることになり、ユダの地を通ることになりました。ヨシヤ王は自国の領土に他国の軍隊が侵入することを良しとせず、エジプト軍を迎え撃ちました。ところが神はエジプト王ネコを通して、戦わないようにと語るのですが、ヨシヤ王はその言葉に耳を貸さず、迎え撃ち、エジプト軍の前に討ち死にしてしまうのです。
 ヨシヤ王が死んだ後、南ユダの王となったのは、ヨシヤ王の息子のヨアハズでした。ヨアハズは23歳で王となりますが、エジプトの介入により、三ヶ月で退位させられてしまうのです。そして、エジプトによって、その兄であるエルヤキムが王となり、ヨヤキムと改名させられるのです。
ヨヤキムは25歳で王となり、11年間南ユダを治めました。しかし、主の目に悪とされることを行い、曾祖父であるマナセ王の道を歩んだと列王記下に記録されています。この頃にはアッシリアは新興勢力のバビロニアに滅ぼされ、バビロニアがユダを含めたパレスチナ地方一帯に圧力をかけてくるようになっていました。
 強大なバビロニアに対して弱小国家のユダは抵抗するのですが、すぐにバビロニアの支配下に置かれ、ヨヤキムはバビロニアへ捕囚として連れて行かれ、エルサレム神殿の宝物も奪われてしまうのです。
 次に王となるのはヨヤキムの息子のヨヤキンですが、歴代誌によると8歳で王となったと記録されていますが、列王記には18歳で王となったと記録されています。何歳で王座に就いたのかは、はっきりしませんが、三ヶ月間王位にいました。しかし、バビロニアの王に捕らえられヨヤキムと同じように捕囚として連れて行かれてしまいました。
 そして、バビロニアの介入によって、その兄ゼデキヤが21歳で王となり、11年間エルサレムを治めました。このゼデキヤも主の目に悪とされることを行い、エレミヤが語る主からの預言の言葉に耳を傾けなかったと記録されています。
 エレミヤは「嘆きの預言者」と呼ばれることが多いのですが、ある注解書によると「憤りの預言者」と書かれていました。エレミヤが憤っていたというより、このような歴史的背景の中で、神が憤っていたという事と、神に背くユダの民に対して、エレミヤが裁きの言葉を語ることによって、ユダの民がエレミヤに対して憤っていたので「憤りの預言者」と言われるようになったのです。
【憤りの時代】
 今お話したように、ヨシヤ王の時代、ユダ王国は安定していたようですが、近隣の大国間における関係性は、非常に緊張したものだったようです。
 ユダの兄弟国であったイスラエルは紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされ、約80年後の紀元前640年にヨシヤはユダの王になっています。ヨシヤがユダの王となり宗教改革をしたことが聖書には記録されていますが、同じように政治や軍事においても安定と繁栄をもたらしたと考えられています。そして、アッシリアの属州となっていた地域をユダに併合していったことが歴代誌下34章を見ると確認できます。
 ユダの民衆は、ヨシヤ王によってダビデやソロモンといった伝説的な王のいた時代のようにユダが繁栄すると期待していたと思います。そして、ヨシヤ王はその期待に応えていたのです。しかし、エジプトによってヨシヤ王は殺されました。そして、エジプトに介入されながらもユダは安定していたようなのです。
ヨシヤ王亡き後、ユダの民衆はヨアハズを王としましたが、先ほどお話したように、エジプトの介入によってヨアハズは王座から退けられ、その兄ヨヤキムが王となりました。この時代にバビロニアが勢力を強め、エジプトとの関係の強かったユダはバビロニアから攻撃され、その支配下に置かれるようになったのです。
 このヨヤキムの時代については、ほとんど記録がないので分かりませんが、ヨヤキムの次に王として民衆から選ばれたのがヨヤキンでした。しかし、即位してから三ヶ月でバビロニアによって退位させられ、神殿の宝物と共にバビロニアへと送られてしまうのです。そして、バビロニアの介入によって王位に就かされたのがゼデキヤでした。
 ヨシヤ王の宗教改革によって神へと立ち返ったユダの民でしたが、その後の王たちが神の目に悪とされることを行い続けたことによって、信仰的に神から離れていきました。このようなユダの姿に対して、神は憤られました。
【人々の憤り】
 このような危機的状況であるにもかかわらず、ユダの民には身に迫った危機感はありませんでした。エレミヤの語る預言の言葉は、ユダの滅びでした。今のままでは、神の裁きが下されてしまうから、神に立ち返りなさいというものだったのです。
 しかし、民はヨシヤ王によってもたらされた安定と繁栄の中にいると思い込み、自分勝手に、自由気ままに振舞っていました。そして、そのような暮らしが幸いなのだと思っていたのです。
 13節を見ると「「身分の低い者から高い者に至るまで 皆、利をむさぼり 預言者から祭司に至るまで皆、欺く」と書かれています。つまりすべての人が自分勝手になり、何かによって平和だと騙されていたのです。
 これは2500年前の事ではなく、今の日本にも通じることではないでしょうか。1970年代後半に「一億総中流」という言葉が使われ始め、ほとんどの日本人が「中流意識」を持ち始めました。しかし、1990年代、バブルがはじけた頃から、格差がどんどん広がり、今は格差社会と言われています。しかし、どれだけの人が自分を貧困層だと自覚しているでしょうか。
 テレビの情報番組などを見ていると、とんでもない情報が流されています。行列のできるカフェが紹介されていましたが、そこのランチの値段は2000円以上でした。特別な時ならあるのかもしれませんが、誰が2000円以上のランチを日常的に食べることが出来るのでしょうか。
 現実には、そんな生活が出来ないのに、情報として垂れ流されることによって勘違いする人がいるのです。「預言者から祭司に至るまで皆、欺く」何かによって欺かれているのです。
 他にも「何かによって欺かれている」ものや事が溢れているのではないでしょうか。最近よく話題に上る「ハラスメント」問題、クレーマー、ネット上の誹謗中傷、個人情報・・・いずれにしろ、本質がどこかに行ってしまい、言葉だけが独り歩きして、誤った解釈によって、本来の目的とは程遠い使われ方が為されているような気がするのです。
 そんな時代に正論を語るならば、必ず攻撃されるのです。14節には「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言う」とあります。平和がないのに「平和、平和」と言わされるような同調圧力があるのです。格差社会の中で、貧しいのに、貧しくないと言わされたり、または、貧しくないふりをさせられてしまうのではないでしょうか。
 15節を見ると「彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず 嘲られていることに気づかない」とあります。恥ずかしいことをしているのに、恥ずかしくないと思い込まされているのではないでしょうか。テレビのニュースを見ると政治家たちが、子どもでもわかるような嘘を平気な顔をしてついているわけです。
 そのような状況に慣れてしまった人は、自分でも平気で同じことをするのです。感謝すべき人に対して、感謝することを忘れ、相手のちょっとしたミスを見つけては、マウントをとって攻撃するのです。公共交通、医療、運送、その他にも様々な業種を担う人たちに対して、自分にはできない、何かをしてもらっているにも拘らず、文句をつけてしまうというのは「恥ずべき事」だったはずなのです。
 エレミヤに代表される預言者たちは正論を語りました。神の言葉、預言の言葉を語ったのです。その言葉に人々は憤りを感じたのです。今、私たちはユダの民のように、神の言葉に憤りを感じるのではなく、16節にあるように「立ち止まって、見渡し」さらに17節にあるように「耳を澄まして」聞かなければならないのです。
 その先に見える道は暗く険しい道かも知れません。もしかすると進みたくないと思える道かも知れないのです。また、その声は耳に痛い、聞きたくない言葉かもしれません。しかし、預言者を通して語られる神の言葉ならば、それに聞き従わなければならないのではないでしょうか。
 
祈 り
賛美歌   新生557 幻をわれに
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏