前 奏
招 詞   イザヤ書25章8節
賛美歌   新生 14 心込めて主をたたえ
開会の祈り
賛美歌   新生290 主の祈り
主の祈り
賛美歌   新生602 まもなくかなたの
聖 書   詩編103編1~5節
                   (新共同訳聖書 旧約P939)
宣 教   「慈しみと憐れみ」    宣教者:富田愛世牧師
【慈しみと憐れみ】
 本日は召天者を覚える日の礼拝として、先に天に召された方々を記念し、また、そのご遺族の方々と共に礼拝を捧げる事ができ感謝いたします。
 今日、導かれた聖書箇所は詩篇103篇ですが、先週まではマルコ福音書からと考えていました。ところが、準備を進める中で前もお話したような気がしてきて、以前の宣教箇所を見返したところ、2020年に選んだ箇所と同じでした。それで、急遽別の箇所を選び直しました。
 この箇所のテーマは「慈しみと憐れみ」という事です。私たちの人生には様々な出来事がありますが、仏教では人生とは苦であると語ります。キリスト教会で仏教のお話をするのは、いかがなものかとお叱りを受けることがありますが、日本の文化や日本人の思考に、仏教的な考えというものは、非常に大きな影響を与えています。
 ですから、仏教的な思想や文化を取り除いて、お話をするという事には無理があると思います。また、私は牧師の家庭で育ったという背景から、日本的なものをあまり知りませんでした。ですから、福音を語るためには、仏教的なものを知る必要があると思い、仏教系の大学に行って、初歩的な学びをしました。
 そんなことで、今日も少し仏教的な視点も踏まえて、聖書を読んでいきたいと考えています。仏教では今言ったように、人生とは苦であると語られますが、ここで語られる苦というのは、辛さや苦しさという事ではなく、思い通りにならない事を指しているわけで、生老病死、つまり人は生まれた時から老いに向かって歩みだし、病にかかり、やがて死んでいく。それらの出来事はすべての人に必ず起こるが、自分ではどうにもしようがないというのです。
 確かにその通りですが、もし、私たちの人生が、どうにもしようのないことだけで、あとは流れに任せるか、それとも、しようのないことを受け入れて、お釈迦さまの言うように、悟りの境地に行かなければ、やってられないかも知れません。
 しかし、一部の人を除き、ほとんどの人が、そんな境地には達する事などできません。そのような人間に対して、聖書は主の慈しみと憐れみによって生きていきなさいと語るのです。
 主の慈しみと憐れみという二つの言葉は聖書や賛美歌の歌詞によく登場します。しかし、いざ説明するとなると日本語としての意味と、聖書が語る内容にはちょっとしたズレがあるように感じます。
 慈しみという言葉は、最近ではほとんど使われずに、思いやりとか大切、愛などという言葉に変わっているような気がします。また、憐れみは、同情と同じように使われ、本来の意味というより、上から目線で使われる事が多いように感じます。皆さんはどうでしょうか?
 それに対して、この詩篇が語ろうとする「主の慈しみ」とは、神の性格を表す言葉として用いられているのです。神と人との関係で、避けては通れないものが罪という事柄ですが、主の慈しみとは罪に対する怒りより大きく、永続的なものなのです。
 神は罪を憎まれ、裁かれますが、人を憎み、裁こうとしているわけではありません。罪を犯してしまう弱い存在である人に対して、その慈しみによって、赦しを与えようとされるのです。これが、罪人の救いの根拠となり、希望となるのです。
 そして「主の憐れみ」は、その慈しみを補うものとして表され、罪を目の前にした時、主のあふれる慈しみからくる赦しを決定的なものにしているのです。
【赦しと癒し】
 この慈しみと憐れみが具体的な形をとる時、それは主の赦しと癒しとして表されるのです。この詩篇の作者は重い病にかかり、その病が癒された体験から、この詩を書いたと思われます。
 しかし、詩篇の中で語られる病とは、肉体的な病も意味しますが、それだけではなく、人の罪を象徴するもの、譬えとしても用いられているのです。二重の意味を持っているのです
 人は罪を犯す存在なのだ。罪を犯す事はしょうがない事だ。と思っている方が多いと思いますが、神が人を創られた時は罪を犯すようには創られませんでした。創世記に記録されている天地創造の物語の中で、最初の人間アダムとエバは神と語り合うことのできる親しい関係でした。
 しかし、ある時、ヘビの姿をしたサタンによって誘惑されるのです。サタンの言葉は「あなたも神のようになれる」という甘いささやきだったのです。人は誰もが、このささやきに誘惑されてしまうのです。それは自分が一番という自己中心の思いなのです。
 このサタンの誘惑の言葉「神のようになれる」という言葉にそそのかされ、神との約束を破ってしまうことによって、罪が入り込んでしまったのです。そして、その罪によって神と人との関係は傷ついてしまい、この傷が完全に癒えていないので、人は苦しむのです。
 時々「クリスチャンになると悪い事ができなくなるので、私はクリスチャンにはなれません」とおっしゃる方がいます。その人はこれから、犯罪者になろうとしているのでしょうか。きっとそんな事はないと思います。ほんの些細な罪、つい嘘をついてしまうとか、そういった程度の事だけだと思うのです。
 ここで問題になるのは、そのような些細な罪を裁くのは誰かという事です。先ほど言ったように聖書の神は慈しみと憐れみのお方であり、その慈しみとは罪に対する怒りより大きいのです。つまり、裁いているのは自分自身なのです。罪を犯す事によって、自分で自分を裁き、自分を傷つけてしまうのです。
 しかし、罪を甘く見てはいけません。罪を犯す事によって私たちの魂は傷つき、心も傷つき、肉体も傷ついてしまいます。転んですりむいたような傷なら、薬を付ければ治りますが、罪によって傷つけられた傷は、主によって癒されなければならないのです。
 それではどうすれば癒されるのでしょうか。罪を主の前に告白する事でしょうか。もちろんそれも必要です。しかし、知らずに犯している罪はどうなるのでしょうか。詩篇103篇から分かる事は、主をほめよという事です。
 主の慈しみと憐れみは、行いや条件によって与えられるものではなく、一方的に与えられるものです。そして、主があなたを赦す。あなたを癒すと宣言しておられるのですから、それを信じて、感謝すればよいのです。それは神の宣言、神の約束なのです。
【主の恵み】
 この詩篇の作者は「わたしの魂よ、主をたたえよ」と賛美の声をあげ「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」と証しします。
 主の慈しみと憐れみによって、罪を赦され、病を癒され、死の淵から立ち上がる事のできた人は、ただ主を賛美し、その恵みを証しせずにはおられなくなってしまうのです。
 そして、この順番は反対にしても同じ事が言えるのです。ただ主を賛美し、その恵みを思い起こして感謝する時、私たちの罪は赦され、病が癒され、死の淵から立ち上がる事ができるように力が与えられるのです。
 今日の聖書がなぜ、召天者を覚える日の礼拝にピッタリ来るのか、少し分かりにくいかも知れませんが、ここに書かれている事は、私たちがあれこれ考える前に、神が備えてくださっている事を証言しています。
 その流れの中で、4節を見ると「命を墓から贖いだしてくださる」と書かれています。つまり、人は死んで墓に葬られますが、それで終わりなのではないという事なのです。「墓から贖いだしてくださる」のです。何を墓から贖いだすのか、それは「命」なのです。
 死んでしまうという事は「命」が尽きてしまうという事だと私たちは理解しています。しかし、聖書はそのようには理解していないようなのです。墓の中から命を贖いだすというのです。
 何となく理解に苦しむような表現だと思います。しかし、ここで語られる「死」とは肉体的な命の死であって、人の命とは、それだけではないと思うのです。魂とか霊とか、また、精神とか様々な「命」があると思います。
 そして、聖書が語るのは「永遠の命」というものなのです。イエス・キリストを信じる者は「死んでも生きる」と語られ「永遠の命が与えられる」と語るのです。聞いただけで、すぐに理解できることだとは思いません。人の知恵だけでは理解できないことかもしれません。
 しかし、聖書は私たちに対する希望として、永遠の命が与えられると語っているのです。死んで終わりではなく、死から新しい命へと贖いだされるという希望があるのです。これは論理的に理解することではありません。信仰の話しなのです。
 信じることによって得られる平安と希望があるのです。そして、それは死後の希望だけではなく、生きている者も、新しくされ、その命の限り、主の恵みを受け続けるのだと聖書が宣言しているのです。

祈 り
賛美歌   新生608 かなたにはまばゆき
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏