前 奏
招 詞   テサロニケの信徒への手紙一4章9節
賛美歌   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
賛美歌   新生523 主われを愛す
主の祈り
賛美歌   新生585 救いのぬし主よ
聖 書   エレミヤ書31章27~34節
                      (新共同訳聖書 旧約P1236)
宣 教   「新しい約束」     宣教者:富田愛世牧師
【はじめの関係】
 皆さんは神についてどのようなイメージを持っているでしょうか。マンガに出てくるような白いひげの優しいおじいさんをイメージする人もいれば、いつでも私たちが悪いことをしないかどうかを見張っているような恐ろしい方というイメージを持つ人もいるでしょう。
 日本の昔話やギリシャ神話では、人間にそっくりだけど、超能力のようなものをもっている神が登場します。そして、人間にいたずらしたり、人間と仲良くなったり、色々しますが、人間との関係を持ちながら生活しているように思えます。
 それでは、私たちが信じている聖書では、どのように表現しているでしょうか。教会に来て、聖書を読んでいる人の中にも様々なイメージがあります。ヘブライ語聖書の神は義の神で、人間を裁き、新約聖書の神は愛の神で、人間を赦してくださると考える人が多いようです。
 それでは、神はある時期に変わってしまったのでしょうか。神が変わるというのは、おかしな話で、最初から最後まで、いつまでも変わらないのが神なのです。神と人間の違いはたくさんありますが、この「変わる」という事が人間の特徴で、傲慢になった人間は、自分を神と同じように勘違いするので、変われなくなってしまうのです。
 ただ、人間に理解できる神の姿は、その角度というか、背景や状況によって見えてくるものが違うことがあるのです。本質は変わらず、見え方が変化するという事なのです。
 創世記において神が人間を創られた時、神と人間は直接的な関係を持っていました。アダムとエバは直接、神と会話し、その後の族長時代もアブラハム、イサク、ヤコブたちは皆直接、神の語りかけを聞きいていました。
 その後、出エジプトの時代になると、選ばれた人モーセだけが神との直接的な関係を持つようになりました。そして、多くの人々は神との関係を持たず、出エジプトという大きな神の救いの業のなかにあっても、神に背き罪を犯しつづけたのです。
【はじめの契約】
 出エジプトという出来事は、イスラエルにとって決定的な出来事でした。奴隷の家であるエジプトから神が救い出してくださったのです。それは、イスラエルに対する特別待遇でした。
 しかし、神はすぐにイスラエルを約束の地に入らせてくださった訳ではありませんでした。いくら60万人の大移動だといっても、地理的には一ヶ月もあれば十分に到着できる距離だったと思います。それを40年の歳月をかけ、荒野を旅させました。
 初めの数ヶ月、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれ、荒野を進んでいくのですが、途中で水が飲みたい、食べ物がないと不平を言い、食べ物が与えられると、今度は肉が食べたいと不平を言うようになるのです。
 そして、神に対する信頼より、不信や疑いを持つようになり、罪を犯し続けるようになるのです。そして、都合のいいように、選民意識的な感覚だけは持ち続けていたようです。
 そのようなイスラエルに対して罪を自覚させるため律法が与えられたのです。「私がエジプトの奴隷の家から救い出した、愛するあなた方は・・・するはずがないでしょう」と。
 恵の戒めとして、与えられた律法でしたが、いつの間にか恵の戒めだったことを忘れ「しなければならない」もの、つまり律法主義へと変化していったのです。
 その後も罪を犯しつづけるイスラエルに対して、神は士師記に書かれているような指導者たちを送り、その次は「自分たちの王が欲しい」と求めるイスラエルの訴えに答え、王を備えてくださいました。
 しかし、この出来事がまたイスラエルを傲慢にしてしまい、イスラエルは神に背く道を歩み続けるようになるのです。そんなイスラエルに対して、神は預言者等を通して悔い改めのチャンスを与えました。
 預言者たちは、神の命令を忠実に守り、悔い改めるように民に迫りました。しかし、民は悔い改めようとせず、とうとう神の裁きによってバビロンへの捕囚となってしまったのです。
【新しい契約】
 「裁き」という言葉を、私たちは否定的に捉えすぎるように思います。確かに裁かれる時、裁かれた人は非常に辛い思いをしますし、苦しむと思います。しかし、その裁きには、必ず理由があり、その理由は自分の罪なのです。
 自分の犯した罪や過ちによって、裁かれるのは当然の事です。さらに、もし裁かれなかったとしたら、犯した罪や過ちに気づかなかったかもしれません。そういう意味で、神の裁きというのは否定的なものに限ったことではありません。愛に裏打ちされているから裁かれるということなのです。
 エレミヤの時代、イスラエルは神によって裁かれ、バビロン捕囚という辛い経験をします。しかし、神はイスラエルを見捨てられたのではありません。その罪を自覚し、神の前に悔い改めのチャンスが与えられるために、バビロン捕囚という道を通らされたのです。
 そして、この裁きには、次の段階として希望の預言が備えられているのです。それは、バビロン捕囚から救い出され、さらに神はイスラエルとの間に、新しい契約を結ばれると告げるのです。
 はじめの律法、つまり、モーセの十戒は石に刻まれたものでした。そこに書かれた文字は、愛する民、イスラエルに向けた恵の戒めでした。しかし、民は文字に書かれた律法の本当の意味を理解することができず、それを厳しい裁きの言葉に変えて、理解してしまったのです。律法主義的に「ねばならない」ものにし、人を解放するはずの律法によって、人を縛り付けてしまったのです。
 それに対して、新しい律法は一人ひとりの心に刻まれるものとなりました。つまり、人間がどのように理解しようが、神は人間を愛し、罪から解放されるという事を、一人ひとりの心に伝えられるのです。
 このように神は、その哀れみによって、はじめの関係を回復されたのです。雲の上の方、畏れおおくて近づきがたい方、その方の前では正しく装わなければならない方ではなく、普段着のままで、お会いする事を許してくださるお方、自分の弱さや小ささ、醜さまでも受け入れてくださる方として、私たちに接してくださるのです。
【神の赦し】
 私たちは自分の感覚で神を理解しようとしてしまいますが、それは大きな間違いです。神の赦しという事を考える時、私たちは人間的な限界のある赦しという感覚で理解しようとしてはいけないのです。
 はじめに神は、私たち人間と直接的な、平和な関係を持っていてくださいました。それにも係わらず、人間はそこから勝手に飛び出し、神を神と認めず、自分を神にしてしまうという罪を犯しました。そんなイスラエルを奴隷の家、つまりエジプトから導き出し、神との間に平和の契約、十戒を与えてくださいました。
 しかし、また罪を犯し、神の裁きによって奴隷の家、つまりバビロンへ戻ってしまったのです。まことに愚かなイスラエルを神はその大きく、深い愛によって再度赦されたのです。
 この出来事は、現代に生きる私たちの信仰生活にも当てはまります。今、私たちには石ではなく、一人ひとりの心に新しい約束、新しい契約が刻まれているのです。それは、イエス・キリストが生まれた事によって現実となりました。
 統計を取ったことがないので、正確な数字は分かりませんが、ほとんどのクリスチャンは新約聖書に書いてあるイエスの福音によって救われたはずです。ヘブライ語聖書に書かれている十戒を読んで救われた人に、私は出会ったことがありません。もしかするといるかもしれませんが、本当に少数だと思います。
 という事は、大多数のクリスチャンは、ここで語られる新しい契約によって、一人ひとりの心に刻まれた契約によって、神の愛と哀れみを感じ取ったはずなのです。
 「ねばならない」という信仰に逆戻りしてはいけません。私たちは「・・・するはずだ」という積極的な、神の期待に応える姿勢を示していくように導かれるのです。ここに神の愛の真実の姿を見ることが出来るのです。

祈 り
賛美歌   新生370 主イエスにこたえて
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏