前 奏
招 詞 ミカ書5章1節
賛美歌 新生 8 主の呼びかけに
開会の祈り
賛美歌 新生151 わが心は あまつ神に
主の祈り
賛美歌 新生184 マリアより生まれたもう
聖 書 マタイによる福音書1章18~21節
(新共同訳聖書 新約P1)
宣 教 「クリスマス事始め」 宣教者:富田愛世牧師
【イエス誕生の次第】
今日からアドベントに入ります。クリスマスが近づくと、何となくワクワクした感じがするのは、私だけではないと思います。町を歩いていると、先週まではブラックフライデーセールなどという看板が目立ちましたが、今週からはクリスマス一色になるのではないかと思います。
それにしても、商売をしている方たちの商魂はたくましくて、先日ニュースを見ていたら、10月30日のハロウィンが近年、市民権を得るようになったので、10月にはハロウィンセールが開催され、12月は以前からクリスマスセールを開催していました。その間にある11月の売り上げが落ち込むからという事で、最近はブラックフライデーセールがはやり出したという事でした。
様々な事柄が、経済活動にリードされ、それに多くの人は乗せられているのだなと、自分を含めて思わされます。教会には、そのような流れに乗ってはいけないという意見と、一般社会の動向を見極めながら、乗り遅れないようにしなければ、先がないという意見が、いつもあります。
どちらが正しいという事ではなく、いつの時代でも、人間の考える正しさというのは、揺れ動くものなのではないかと思わされます。
今日は「クリスマス事始め」というタイトルを付けましたが、イエス誕生の次第を見ても、正しさという事が一つのキーワードとして出てくるのです。
マタイによる福音書では、イエス誕生の次第を「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とだけ書いています。このたった1節に書かれていることの背景には、マリアとヨセフそれぞれの心の葛藤がありました。
マタイによる福音書にはマリアの言葉は一言も出てきませんが、ルカによる福音書を見ると、イエス誕生の前にバプテスマのヨハネの誕生が記録されています。その母エリサベトが身ごもって6ヶ月目に、マリアのもとへ天使ガブリエルが現れ「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」という挨拶をして、イエスを身ごもっていると告げるのです。
この時、マリアはヨセフと婚約していましたが、まだ、一緒になる前だったという事でした。当然の事としてマリアは天使の言葉を受け入れることが出来ませんでした。有り得ないことだと反論するのですが、天使は聖霊の働きであり「神にはできないことは何一つない」と言ってマリアを説得しました。
ルカによる福音書1章38節には「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように。』そこで、天使は去って行った。」と書かれています。天使に説得され、マリアは未婚の身でありながら、聖霊によって身ごもるという事をヨセフに相談もせず、受け入れているのです。
よく切羽詰まった時は。女性の方が強いとか、潔いと言われることがあります。この場面でもマリアの潔さというものが表れているような気がします。それに対して、ヨセフの方は何となくウジウジと悩んでいるような気がするのです。
【正しい人ヨセフ】
ヨセフの方はどうだったのでしょうか。18節で「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」と書かれ、続いて19節を見ると「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と書かれています。ヨセフはその正しさの故に大きな葛藤の中にいました。
ヨセフは正しい人であったというのですが、何が正しかったのでしょうか。ヨセフの今までの言動が正しいものだったという事なのでしょうか。世間の評判として正しい人だったという事でしょうか。それとも、正しい人だったから婚約者であるマリアが身ごもっていることを表ざたにしないようにしたという事でしょうか。また、正しい人だったから縁を切ろうとしたのでしょうか。
様々な解釈が成り立つと思うのです。単純に品行方正な正しいという評判の人だったかも知れません。そして、その正しさのゆえにマリアを受け入れられなかったのかもしれません。反対にマリアの身を案じていて、縁を切ろうとしたのかもしれません。
いずれにしても、ヨセフの考える「正しさ」とは律法を基準とした正しさでした。律法によるならば夫以外の男性の子を宿すという事は姦淫であり、死罪に当たるものでした。ヨセフにとって身に覚えのないことが起こったので、マリアが姦淫したと思ってしまったのです。思いやりからの正しさなのか、杓子定規的な冷淡な正しさなのか、それは分かりませんが、縁を切る、関係を解消するという方法を選んだことには変わりはありません。
【ヨセフの戸惑い】
ヨセフの決断によって、様々な推測が成り立ちますが、そもそもの話として、マリアとヨセフはお互いをどう思っていたのでしょうか。
聖書には「婚約していた」とありますが、当時の婚約という関係、状況はどのようなものだったのかというと、かなり広い意味を持っていたようなのです。
それぞれの年齢的なことも関係していますが、結婚の適齢期と言われる年齢になる前の状態だったとするならば、ほとんどの場合は、お互いに顔も見たことがなく、親から、そのように聞かされているだけの関係だったと思われます。
ただ、幼なじみで、親同士がそれを承知で婚約させる場合もありますから、その場合は適齢期前だったとしても、お互いを知っているという関係もあり得るようです。
しかし、マリアとヨセフについて言えば、マリアは身ごもっているわけですから、結婚の適齢期に達していたと考えて構わないと思います。そうだったとするならば、お互いに顔も見たことがないという事は、あまり考えられません。お互いに顔くらいは見ていたと思われます。
また、当時の婚約という関係性は、現在私たちが考えるものとは違って、すでに一緒に暮らしているということも有り得たという事です。ただし、先ほどのルカによる福音書1章34節で天使の言葉に対して、マリアが答えた言葉に「どうして、そのようなことがありえましょう。わたしは男の人を知りませんのに。」とあるので、この二人は一緒に暮らしてはいなかったという事になります。
様々な想像が出来ますが、聖書はその点については何も触れていません。何故なのかは分かりません。しかし、イエス誕生という出来事は、人の考えという枠にはめられるものではないという事を示そうとしているのではないでしょうか。
【神の正しさ】
分からないことだらけですが、人の思いとして、ヨセフの決断にも思いを寄せたいし、この後のヨセフの態度から想像するならば、ヨセフはその正しさの故に、さらにマリアを守るために分かれることを決心したと思います。
しかし、そのようなヨセフに対して20節を見ると、夜寝ているヨセフの夢に主の天使が現われ「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と語るのです。続けて「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と語るのです。
ヨセフはこの言葉を聞いてドキッとしたのではないでしょうか。マリアと縁を切ろうとしていたのは「正しさ」の故だと思っていました。しかし、それはただの思い込みであって、ヨセフの心には「正しさ」という仮面をかぶった「恐れ」があったのです。
人の考える「正しさ」は「恐れ」を隠すための仮面なのではないかと思うのです。何故なら、人の正しさは、律法を守るか、守らないかという判断基準によるからなのです。守れば正しい、守らなければ間違いという二元論的なものになってしまうのです。それに対して神の正しさは、その誤解した律法からの解放なのです。
使徒言行録10章に、人の正しさより神の正しさを優先すべきという記録があります。ある時ペトロは祈るために家の屋上に上ったのですが、ちょうど昼時で空腹を覚えていました。そして、祈りの最中、天から「汚れたもの」が降ろされました。すると天から、その汚れたものを屠って食べなさいという声が聞こえたというのです。しかし、ペトロは「汚れたもの」を食べることはできません。と断ると「神が清めたものを清くないと言ってはいけない」という声が聞こえたというのです。
私たちは「正しくあるべき」という思いを持っています。それは大切なものであり、正しいことなのです。しかし、そこにある「正しさ」とは何なのかをよく考えなければなりません。「恐れ」を隠すための仮面だったとするなら、それは、もはや「正しさ」ではありません。私たちが従うべきものは神の正しさなのです。それは律法主義から解放された正しさなのです。
祈 り
賛美歌 新生148 久しく待ちにし
主の晩餐
献 金
頌 栄 新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷
後 奏
2024年12月1日 主日礼拝
投稿日 : 2024年12月1日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー