前 奏
招 詞   イザヤ書9章5節
賛美歌   新生  8 主の呼びかけに
開会の祈り
賛美歌   新生153 エッサイの根より
主の祈り
賛美歌   新生176 主は豊かであったのに
聖 書   マタイによる福音書1章22~25節
                      (新共同訳聖書 新約P2)
宣 教   「メシア預言」    宣教者:富田愛世牧師
【イエスの誕生】
 イエスの誕生については、マタイによる福音書とルカによる福音書だけが、その不思議な出来事を記録しています。他のマルコによる福音書やヨハネによる福音書がなぜ記録していないのかについては分かりませんが、イエスの誕生よりも大切だと感じたことがあったから、それを優先したのではないかと思います。
 マタイによる福音書では、イエスが誕生する前後の出来事を記録していますが、イエスの誕生については1章24節から25節だけで簡潔に語り、その後に起こった不思議な出来事として、東方の占星術学者たちがイエスの誕生をお祝いに来たという事を2章で語っています。
 このような流れの中で、イエスの誕生について、その数か月前の出来事が1章18節から25節までに記録されているので、もう一度、読ませていただきます。
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
 読んで分かるように、25節で産まれた子に「イエス」と名付けたことが記されているので、具体的にイエスが産まれたことが分かるのですが、その時、何が起こったのかについては具体的に何も触れていないのです。
【メシア預言】
 その代わりに、マタイによる福音書が語るのは、昔の預言者によってメシアの到来が告げられていたという事なのです。ユダヤ民族にとって重要なメシア預言と呼ばれるものが伝えられていたはずなのです。そして、その預言が成就した、実現したという事に注目しているのです。
 22節を見ると「このすべてのことが起こったのは」と書かれています。「このすべてのこと」とはイエス誕生に至る不思議な出来事の一つひとつについてだと思うのです。
 初めに起こったことは、イエスの誕生とは直接関係がないように思われますが、マリアの親戚であるエリサベトが身ごもったという事でした。ルカによる福音書1章7節によると、エリサベトは不妊の女と呼ばれ、既に年をとっていたという事です。生物学的にはあり得ないことが起こったという事なのです。
 そして、その半年後に、マリアのところへ天使がやって来て、マリアに妊娠しているという事を告げるのです。それを聞いたマリアは驚いたに違いありません。ヨセフと婚約していましたが、まだ、一緒になっていなかったという事ですから、あり得ないことが起こったというのです。
 驚き、戸惑っているマリアに向かって、天使はさらに不思議な、理解できないような事を語るのです。それは、聖霊によって身ごもったという事なのです。身ごもったという事でさえ、理解できないのに、それが聖霊によるものだと言われ、理解できる人がいるでしょうか。
 バプテスト連盟の教会ではよく「聖霊が分からない」という言葉を聞きます。私も「聖霊とは何ですか」と聞かれて説明することは出来ませんが、聖霊の存在というものは、説明することではなく、感じることではないかと思っています。聖霊が働いているとか、聖霊の臨在を感じるという事はあると思いますし、私自身も感じることがあります。
 マタイによる福音書は「聖霊によって身ごもった」という事について。イザヤ書7章14節のメシア預言が天使によって語られたと記録しています。マタイによる福音書は「おとめが」と訳していますが、ヘブライ語の聖書では「若い女」となっているのです。なぜ「おとめ」と訳したのかは分かりませんが、あり得ないことが起こった、つまり、聖霊の業によって、この出来事が起こったという事を強調しようとしてのではないかと思うのです。
【インマヌエル預言】
 24節の「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」という言葉は「インマヌエル預言」とも呼ばれ、預言者イザヤが語ったメシア預言の代表的なものです。他には、今日の招きの言葉として語られた9章5節の「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。」
 また11章1~10節は王としてのメシア預言として「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。」と続いていきます。
 マタイによる福音書で天使が語った、イザヤ書7章14節では、メシアについて「その名はインマヌエルと呼ばれる」とあります。聖書に書かれているように「インマヌエル」とは「神は我々と共におられる」という意味です。
 この「神が共にいる」という言葉は、特別な意味を持っているのです。イスラエルの民にとって、その信仰の父祖として、重要な人物がいます。その人物はイスラエルだけでなく、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒にとっても重要な人物で、それぞれの信仰の父祖としてのアブラハムという人物です。
 このアブラハムは神の言葉に従って、自分の故郷を旅立ち、神が示される地、カナンの地へと向かっていきました。まだ見たこともない地ですが、神の言葉だけを頼りにして、旅立ったのです。途中、様々な困難が待ち受け、危険な目にも遭いました。
 その度に神に助けを求め、叫ぶわけです。そして、神はその時々に応じた助けを用意してくださるのですが、具体的な助けと同時に「あなたと共にいる」という言葉がかけられ、その言葉によって励まされ、勇気が与えられ、一歩踏み出すことが出来るようになるのです。
【罪からの救い】
 神が共にいてくれるという言葉は、大きな励ましであり、勇気を与える言葉でしたが、イエスの誕生は「インマヌエル」という言葉だけではなく、前回お読みした1章21節の後半にある「この子は自分の民を罪から救うからである」という言葉にあるように、人々をその罪から救うために来られたという事なのです。
 人々をその罪から救うと、言葉で語るのは簡単かもしれませんが、それはどういうことなのでしょうか。
 罪には必ず裁きが伴います。罪を犯した者は裁かれなければなりません。裁かれなかったとするならば、その人はいつまでも良心の呵責に苛まれてしまうのです。最近の犯罪を見ると「良心の呵責」等という言葉とは縁遠いような、ふてぶてしい人がいるような気がしますが、人間はそんなに強いというか、鈍感ではないと思うのです。
 自分の経験を話すことが適切かどうか分かりませんが、私が高校3年生に時のことですが、夏休みに一人の友人が自殺しました。その原因はいじめでした。2学期が始まり数日たった時、いじめの中心的な人が「きのう夢に○○が出てきた」と話していたのです。彼は何もなかったように振舞っていましたが、心の中では、自分のせいで○○君が自殺したと思って、良心の呵責に苛まれていたのです。
 聖書は罪に対する裁きは死であると語ります。私たちは、その犯した罪に対して、自分の命を、その代償として払わなければならないというのです。もし、そのような神の裁きが下されたとするならば、人類は滅亡してしまうのではないでしょうか。なぜなら、罪を犯したことのない人は、一人もいないからです。
 そんな人類に対する、救いとしてイエスが産まれたのです。イエスは罪を犯した人にダメ出しをするために産まれたのではありません。そうではなく、赦しを語ったのです。
 マタイによる福音書を読み進めると、病人の癒しの場面がたくさん登場します。病気が罪の結果だという事ではありませんが、当時の人は罪の結果だと思い込んでいました。ですから、イエスは病気を癒すことによって、罪の赦しを伝えたのです。
 また、ヨハネによる福音書8章には、実際に罪を犯した女性がイエスの所に連れて来られました。そして、律法学者たちは、律法によれば、この女は石打の刑に処せられるが、あなたはどう考えるのかと、悪意をもってイエスに意見を求めました。それに対して、「罪のないものから石を投げなさい」と答え、その答えに対して、誰も石を投げることが出来ず、皆、そこから去って行ったのです。
 そして、イエスも石を投げるのではなく、もう罪を犯さないようにと言って、帰しているのです。それがイエスなのです。イエスの姿は罪を裁く裁判官ではなく、罪を赦し、良心の呵責に苛まれている人に、希望と励ましを与え、大丈夫と言って、送り出してくださる方なのです。

祈 り
賛美歌   新生149 来れやインマヌエル(A)
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏