前 奏
招 詞 レビ記19章18節
賛美歌 新生 3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
賛美歌 新生 73 善き力にわれ囲まれ
主の祈り
賛美歌 新生397 み神を愛する主のしもべは
聖 書 マタイによる福音書5章43~48節
(新共同訳聖書 新約P8)
宣 教 「愛敵の教え」 宣教者:富田愛世牧師
【敵を愛しなさい】
今日の聖書箇所は「愛敵の教え」と呼ばれ、昔から教会の中で議論されてきました。そして、それは教会の中だけでなく、一般社会でも「キリスト教=愛敵の教え」として反キリスト教の立場をとる人たちにとって絶好の突っ込みどころとなっていました。
しかし、ここで語られる「敵」という表現について、どのように感じるでしょうか。たぶん、ほとんどの方が聖書や教会に馴染まれているから、特別違和感を持たれないかも知れませんが、多くの日本人にとって「敵」という言葉は馴染みの薄い言葉だと思うのです。
「あなたの敵は誰ですか」と質問しても「気にいらない人や憎い人はいても、敵とまでは言えない」という事が多いのです。これはあくまでも言葉のニュアンスですが、敵というのは大げさで、具体性に欠けるので「敵」というより「憎しみ」という感情から考えた方が良いのかも知れません。
それでは、なぜイエスはこんな言葉を語ったのでしょうか。最初におさえておくべき事は、この言葉は律法ではないという事です。だから、守らなければならない命令や戒律のようなものではありません。しかし、大切な事であり、神の国の福音の本質なのです。こうしなければならない、こうなるように努力しなさいという事ではなく、神の国では、こういう事なのだと語っているのです。
自分の敵を愛していく、つまり、憎らしい相手を赦していく事が神の国、神の支配のもとでは可能なのです。しかし、現実に私たちが生きているのは神の国ではなく、この世なのです。この世の現実の中でも憎しみを消し去り、敵を愛して生きたいと願ったとしても、誰も自分の力でそれを可能にする事はできないのです。
そんな人間に対して、イエスは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と語られます。ここで完全な者と語られるのは、何のミスも犯さない完全無欠な者という事ではなく「全うする者」という事なのです。それは初めの思いを最後まで貫き通すという事です。
つまり、天地万物を創られた時に、人間を愛する対象とされた、その思いを最後まで「全うする者」である神の姿を示されたのです。
【憎しみとは何か】
それでは、今日のテーマである憎しみとは何でしょうか。国語辞典によると、憎しみは憎く思う感情と説明されていました。
憎いという事には二つの対照的な意味があり、一つ目は、気に食わないとか、かわいらしくないという意味があり、もう一つは、アッパレとか感心するという反対の意味が書かれていました。
また、新約聖書はご存知のようにギリシャ語からの翻訳ですが、同じ言葉が「嫌う」というようにも訳されていました。
憎しみとは、ある種の感情、それは人を羨んだり、妬んだり、嫌ったり、怒ったりという感情の到達点と言えるでしょう。また、ある時は愛するが故に、その愛に応えてくれなかったり、その愛を裏切ったりされる事によって憎むようにさえなるのです。
このような負の感情の到達点なので、できれば憎しみという感情を持たないで済めば、それに越した事はないのかも知れません。しかし、憎しみは自然な感情なので、なくなる事はありません。
聖書の中にも憎しみ合う人間の記事がたくさん出てきます。代表的なものをピックアップして気づいたのですが、どれも家族関係の中で起こっているのです。最初の殺人事件であるカインとアベルの事件でカインはアベルを妬み、それが憎しみへと変わりアベルを殺してしまいました。同じ創世記の27章では、兄のエサウが弟ヤコブを憎んだと書かれています。さらに37章では父に溺愛されたヨセフが兄たちに憎まれ、エジプトへ売られていきます。
他にも憎しみについての格言を調べるとゲーテは「格言集」の中で「憎しみは積極的な不満で、嫉妬は消極的な不満である。したがって、嫉妬がすぐに憎しみに変わっても怪しむに足りない」と語っていますし、イソップの寓話では「みずから愉しむことのできない人々は、しばしば他人を恨む」と語ります。
憎しみは自然な感情なので完全になくす事は出来ないけれど、自分の心の中に憎しみの感情があふれ、憎しみの感情に支配されると厄介な事になってしまいます。憎しみのような負の感情に支配されると、その感情は増幅してしまうのです。そして、憎しみのために費やされる負のエネルギーは、想像を超えるもので、人の心だけではなく、魂や肉体まで蝕んでしまうのです。
【赦せない現実】
これほど大きな、無駄なエネルギーを使う事なので、憎み続けるよりは、いい加減、赦せばよいと、客観的に見る時には思えます。そう思えるけれども、赦せない現実があるのです。
さらに、真面目なクリスチャンであればあるほど、だんだん苦しくなってくるのではないでしょうか。敵をも愛さなければいけない。どんな人も赦さなければいけない。でも、そんなに簡単に赦せないのが現実です。
その相手に苦しめられ、傷つけられた現実があるのです。そして、それは過去の事ではなく、今もまだ続いているとしたどうでしょう。また、私ではなく私の大切な人、愛する人が傷つけられている、それだけでも赦せないと思いますが、さらに、その相手は何も反省していない、というような時に赦す事が出来るでしょうか。
そう考えると、赦す事がいかに難しいことであるかが分かるのです。また、仮に相手のことを赦したとしても、相手が赦されたくない、赦されることを望んでいなかったとしたどうでしょう。赦すという事は関係を回復させるための行動ですから、自分が一方的に赦したとしても、相手がそれを望まなければ、本当の赦しにはなりません。
私たちは聖書を読み、そこに書かれているイエスの言葉や行動を見る時、それらすべてをイエスが実践したと思い込んでいます。もちろん、実践している場面もありますが、どんな時でも、どんな状況でも実践していたかというと、そうでもないようなのです。
その時や状況によっては、違う方法、行動をとっているのです。今日の箇所の前にある38節からの段落には「復讐してはならない」という小見出しが付いていて、39節を見ると「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とありますが、ヨハネによる福音書18章23節で、イエスが逮捕され大祭司の庭で取り調べを受け下役に平手で平手で打たれた時、何をしたでしょうか。
イエスは「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と正義を主張しています。反対側の頬を出してはいないのです。
【憎しみからの解放】
また、私たちは、敵を愛しなさいとか、赦しなさいという時、自分の感情を抑えて、我慢する事だと思ってしまいがちですが、そうではないようです。
つまり、文字通り、言葉通りに行えという命令や戒めではなく、イエスの語る福音は解放の福音なのです。人を縛っているものから、その人を解放するための言葉です。憎しみに縛られた心を解放するために赦しなさいと語るのです。
人間は、ひどい目に遭った時に、憎しみの心を起こし、復讐したいとか、償わせたいと思います。それは当たり前だし、ある意味で正当な事でもありますが、その思いに縛られてしまうと厄介です。
復讐や憎しみの心に縛られてしまった時に、自分がどんどんだめになってしまう、と感じる事があります。憎しみに囚われ、復讐の心に燃えている、そんな自分自身がどんどん醜い存在に見えてくるし、結局いつまでも相手に振り回されている事になります。あの人のせいで自分はいつまでも幸せになれない、という事になります。
傷つけられ失ったものはどうやっても元には戻りません。憎んだり、復讐したり、逆に赦したからと言って、失われたものが返ってくるわけではありません。でも、だからこそ、私たちは憎しみや復讐で自分の人生を終わらせてはならないのです。
どうすれば憎しみから解放され、敵を赦す事ができるのでしょうか。それは、神の完全さ、つまり、全うされる神が、その最初の愛を持ち続けてくださるという事実に気づく事だとイエスは語るのです。
繰り返しますが、神は私たちを愛している、そして、私たちは神に愛されている。これがはじめの愛です。全うするという事は、このはじめの愛に帰る事、神が私たちを愛し続けている、そして、私たちは神に愛され続けているという事なのです。
私たちがはじめの愛に帰り、神に愛され続ける時、その事実に気づく時、敵を赦せるようになるというのよりも、相手に対する憎しみから解放されていくのです。
祈 り
賛美歌 新生472 ひとりのみ子を
献 金
頌 栄 新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷
後 奏
2025年1月19日 主日礼拝
投稿日 : 2025年1月19日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー