前 奏
招 詞   列王記上18章27節
賛美歌   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
賛美歌   新生125 造られしものよ
主の祈り
賛美歌   新生339 教会の基
聖 書   マタイによる福音書6章5~15節
                      (新共同訳聖書 新約P9)
宣 教   「こう祈りなさい」     宣教者:富田愛世牧師
【祈りの基本】
 今日の聖書箇所では「祈り」という事が大きなテーマとなっていますが、マタイによる福音書全体から見ると、5章から始まっている「山上の説教」の続きとなっています。また、6章だけを見るならば、1節にある「善行」、5節の「祈り」、16節の「断食」について、それぞれを偽善者のようにしてはいけないという戒めのような形にもなっているようです。
 全体像から見ていくと、少しテーマがずれてしまいますので、初めに言ったように、今日は祈りということをテーマに読んでいきたいと思います。
 祈りと言っても、人それぞれ、受け止め方や方法が違うのではないかと思います。また、世界中にある、様々な宗教によっても祈りの対象や方法、意味が違っています。しかし、共通しているのは、誰であっても、また、どんな宗教であっても「祈る」という行為を大切にしているという事です。
 他の宗教の祈りについて、話し出すと時間がいくらあっても足りないと思いますので、今日はキリスト教の祈りだけに焦点を当ててお話を進めていきたいと思います。
 私たちバプテストのクリスチャンにとって、祈りとは自由祈祷と呼ばれるものが、普通の祈りとして受け止められています。しかし、キリスト教という枠組みの中で見ていくならば、自由祈祷だけではなく、祈祷文と呼ばれる決められた祈りの文書を読む形の祈りを捧げる教会、教派もあるのです。そのような教会では礼拝の中で、自由祈祷と呼ばれるものは、ほとんど用いられません。
 私はバプテスト教会で生まれ育ったので、祈祷文というものに抵抗がありましたが、教派を超えた、合同の礼拝では、多くの場合「式文」と呼ばれる定式が用いられるので、会衆が一致して、一つの課題に向かって祈るという豊かさも感じるようになりました。
 もちろん、これは、どちらが良いということではありません。どちらも良さを持っていますが、どちらもその基本にあるものはこの主の祈りなのです。

【偽善者の祈り】
 イエスは「こう祈りなさい」と言って、具体的な祈りを教える前に、このような祈りはいかがなものかといって、具体的な例を二つ上げています。
 一つ目は「偽善者のように祈るな」と戒めています。当時のユダヤ教では「シェマ、イスラエル(聞け、イスラエル)」という言葉で始まる定式化された祈りを朝夕二回、さらに「十八の祈り」と呼ばれる祈りを日に三度、一定の時刻に祈ることが定められていました。
 「偽善者のように祈るな」というのは、これらの定式化された祈りを指しているのではなく、ある人々が、自分の敬虔さを主張するため、定められた時間になると街中であろうが、どこであろうが、そこで祈ったという事なのです。中には、わざわざ定められた時間に合わせて外出し、人前で祈るような人もいたのではないかと思います。
 もちろん、純粋な気持ちで祈る人の方が大勢いたでしょう。けれども、時間の経過と共に、それらが形骸化していき、形式主義的に祈るようになった人もいたのではないかと思うのです。そのような当時の形式主義的なユダヤ教の在り方に対して、イエスは問いを投げかけているのです。
 このようなイエスの問いかけを、私たちはどのように受け止めればよいのでしょうか。イエスの時代から、いきなり二千年飛ぶのは飛躍しすぎかもしれませんが、その間、キリスト教の歴史を見ていく中でも、考えさせられることが沢山、起こっていたのではないかと思うのです。
 16世紀に起こった宗教改革のきっかけの一つは、カトリック教会の形骸化といっても良いと思います。初めは純粋な気持ちで神に向かって祈りを捧げていたのだろうと思います。そして、それらの祈りが習慣化していったのだろうと思うのです。習慣化するという事は、必ずしも悪いことではありません。しかし、気持ちが伴わなくなると、それは危険な面が出てくるのです。
 聖書教育誌の中に「祈りがポーズになってしまうこと」という言葉がありました。教会の中で行われる集会や会議の前後に祈ることは大切かも知れません。しかし、祈らなければならないとか、祈りさえすれば良い、という思いが入り込んでいたならば、かえって祈らない方が良いのかも知れません。
 クリスチャンとして正しい人だと見られようとしたり、それが決まりだからという理由で、無自覚に形式的に祈ったり、そのような祈りに対して問いを投げかけているのです。

【異邦人の祈り】
 次に「異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と戒められています。これは他の宗教において、同じことを何度も何度も、繰り返し祈れば、その努力に、神が報いてくださると考えられていたから、異邦人のようにと言われるのです。
 神社に行くと本殿のところに「鈴」が下がっていて、お参りする人は、その鈴を鳴らしてからお参りをします。なぜ鈴を鳴らすかご存じでしょうか。正確な答えではないのかも知れませんが、神社の神さまは高いところにいるので、鈴を鳴らしてお参りに来たことを知らさなければならないそうです。一節によると、寝ている神さまを起こすためとも言われています。
 そのような神さまならば、叶えて欲しい願い事を、しつこく何度も何度も訴えなければならないだろうし、お百度参りなどがあるように、繰り返すことによって、その努力に神さまが報いてくれると考えるのは自然なのかもしれません。
 しかし、イエスが指し示す、唯一の絶対者である神には、そんなことをする必要はありません。言葉数が多ければ聞かれると勘違いすることは、今の私たちにもあてはまることですから、注意しなければならないと思います。
 8節には「願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とあるのです。私たちの必要を始めから知っておられるのです。
 もう50年ほど前のことですが、レックス・ハンバードというテレビ伝道者がいました。1980年までに、レックス・ハンバードの番組は91言語695放送局で放映されたそうです。レックス・ハンバードのプログラムは家族で出演するのが特徴だったと思うのですが、ある時、レックス・ハンバードの小学校低学年くらいの娘さんが祈る場面がありました。その娘さんはアルファベットAからZまで言って、アーメンと締めくくりました。お父さんのレックス・ハンバードが「なぜそんな祈りをしたの」と尋ねたところ、娘さんは「神さまは私が何を祈ろうとしているか知っているから、アルファベットを並べただけで大丈夫なの」と答えていました。
 ただ、だからと言って祈る必要がないのかと言うとそれは間違いです。祈りは私たちの必要を訴える手段だけではなく、神との交わりの時なのです。私たちは語りかけることを許されていますが、それ以上に神の言葉を待ち望むことが大切なのです。

【イエスの教え】
 偽善者の祈りとして例えられるような、形式的であったり、自慢するものであったりするような祈りも、また、異邦人の祈りとして例えられるような、くどくどと同じことを並べ立てて、その努力を認めてもらおうとする態度の祈りや神を侮るような姿勢で祈る祈りも、イエスが考えている祈りではありません。
 主の祈りでは「御名が崇められますように」とあるように、まず神をあがめることから始めています。そして「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」とあるように、みこころを求めることが求められているのです。
 私たちの祈りは、すぐに「ああしてください。こうしてください」と自分の欲求を並べ立ててしまうのです。そのような、自己主張の強い、愚かな人間に対して、まず、自分を前に出すのではなく、神の御名を崇め、みこころを求めるという、謙虚な姿勢の必要性を教えてくださるのです。
 そして「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と必要を求めることが許されるのです。そして、ここには命を生かしてくださる神への信頼が含まれているのです。さらに「今日」という事なのです。「明日も、明後日も」と欲張ることなく、今日を生きることが求められるのです。
 次に13節に飛ぶと「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」とあります。「試み」ではなく「誘惑」なのです。誘惑とは相手の心を迷わせて、悪い方誘い込むことなのです。試みと違い「悪意」しかないのが誘惑です。ですから、わざわざ誘惑にあう必要はないのです。
 そして12節に「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とあり、15節にも「しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」と二度、同じような内容が出てきます。
 ここで誤解してはいけないのは、赦す事が赦されるための条件のように取れますが、そういうことではありません。神の赦しは無条件に与えられるのです。そのような赦しを受けているのだから、私たちは赦し合わなければならないとイエスは語るのです。
 そして、繰り返し語らなければならないほど、赦す事は難しいことなのです。自分の努力で出来るようになることではありません。だから、神の赦しに対して感謝し、その神に委ねるしかないのです。そうすれば、祈りの中で神の語りかけが聞こえてくるのではないでしょうか。

祈 り
賛美歌   新生430 静けき祈りの
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏