前 奏
招 詞 詩編33編1節
賛美歌 新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
賛美歌 新生437 歌いつつ歩まん
主の祈り
賛美歌 新生213 われらに伝えよ
聖 書 マタイによる福音書13章44~50節
(新共同訳聖書 新約P26)
宣 教 「神の作品」 宣教者:富田愛世牧師
【天国とは?】
今日の聖書は「天の国は次のようにたとえられる」という言葉で始まっていますが、皆さんにとって天の国とはどのようなイメージでしょうか。寒い冬の夜、あったかい温泉につかると、つい「極楽、極楽」と口走ってしまうことはありませんか。天の国と極楽は同じものではありませんが、気分的に似たところがあるように感じます。
私は個人的に1970年代に日本の教会で流行ったゴスペルフォークに衝撃を受け、それ以来、新しい賛美に興味を持ち続け30年前くらいからはプレイズといわれる賛美が大好きなのです。それこそ、そういった賛美をしている時、天国にいるような気持ちになってしまうのです。私に限らず、多くの人が音楽によって心を癒されるということがあると思います。人は皆、それぞれに合った形で安らぎというものを求めているという事なのです。
人間にとってこの安らぎの反対が恐れという感情で、何とかしてこの「恐れ」の感情から解放されたいと思っているのです。そして一番大きな恐れが「死」と「死後」についてなのです。それを解決するために多くの宗教は、死後の世界について様々な教えを導き出しています。
もちろん例外的なものもありますが、そういったものをまとめるならば、死後には霊的な世界が存在し、そこでいかに過ごすかは生前の行いというものに左右されるという事なのです。一般的には生前、悪事を働くと、死後にその報いを受け、生前、善行を積むなら、天国にいけるということですが、死後の世界を見た人は一人もいません。
昔、天海祐希という俳優が主演した「女王の教室」というドラマがありました。その最終回で主人公の阿久津麻耶という先生が、生徒たちに「今をしっかり生きなさい。世の中には、将来のことばかり語る人がいて、その中には死んだ後のことを、さも見てきたかのように言う、嘘つきがいる。そんな嘘に惑わされず、今すべき事をしっかりやっていく、その積み重ねが大切だ」というようなセリフを言うのです。私はすごいセリフだなと思いました。そして、教会で自分が語ることについて考えさせられました。
聖書も死後について語りますが、それは見てきた人の証言ではありません。例外的に黙示文学と呼ばれるものがあり、ダニエル書とかヨハネの黙示録の中には「私は見た」という形で天国について語られることがありますが、あくまでも証言ではなく、黙示文学として語られているのです。
そして、聖書全体が語るのは、天地万物を創り、死後の世界までも創られた方がいるのだということです。そして、その方は神と呼ばれる存在で、神の計画が聖書の中には示されているという事なのです。
【聖書の天国】
マタイによる福音書13章には、天の国についてのたとえ話が6つ載せられています。24節から毒麦のたとえ、からし種のたとえ、パン種のたとえという3つのたとえ話があり、それぞれに天の国の価値について語られています。その後の44節からは畑の中に隠された宝のたとえ、価値のある真珠を見つけた人のたとえという2つのたとえ話が記録されています。
畑の中で宝物を見つけた人は、宝を見つけた喜びのあまり、全財産を売り払い、その畑を買い取って宝物を手に入れるというのです。また、価値のある真珠を見つけた人も、同じように持ち物をみんな売り払って、その価値ある真珠を手に入れたという事なのです。天の国というものは全財産を売り払ってでも、手に入れたくなるくらい魅力的なもので、それを手に入れるためにはそれくらいの覚悟が必要だといっているようなのです。
しかし、そうするならば、天の国に入るということは、自分で何らかの覚悟をし、それに見合ったものを提供したり、犠牲にしたりしなければ入ることが出来ないものなのでしょうか。もし、そのように考えるならば、イエスが語ることとは違い、矛盾を感じてしまうのです。
また、私たち自身についても、天の国という価値のあるものを手にするに値する人間なのかな?と思ってしまうのです。猫に小判とか豚に真珠ということわざがあります。猫に小判を与えたって意味がありませんし、豚に真珠を与えたとしても、指輪やネックレスにするはずがありません。猫や豚にとっては、小判や真珠よりも、魚やとうもろこしの方が遥かに価値あるものに見えてしまうのではないかと思うのです。同じように富田愛世に天の国ってならないか、心配してしまうのです。
【良いものと悪いもの】
しかし、47節以降を見るならば、天の国という網が広げられるならば、そこには全ての人が入れられてしまうのです。この漁は地引網のような漁だと考えられていますから、天の国は、、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものなのです。私たちがその価値に気づいて、持ち物を全部売り払って手に入れようとしなくても、まずは、その網の中に入れられるというのです。
あらゆる種類の魚ですから、そこには食べることのできる魚も、食べられない魚も、また、毒を持っているような魚も一緒に入れられるのです。
つまり天の国というのは、登り詰めた先にあるところではなく、引き上げられるところであって、そこには全ての人が引き上げられていくというのです。でもこれで安心してはいけないのです。
次には、網に入れられた後のことが書かれています。良いのは器に入れられ、悪いのは外に捨てられるというのです。恐ろしい裁きが待っているということなのでしょうか。なんか、飴と鞭のような感じで嫌ですね。それなら、初めから網に入れないで、引き上げないでいてくれたほうがましだと思ってしまいます。
しかし、この裁きという事柄はすでに起こっているのです。それはどういうことかと言うと、今から2千年前にイエス・キリストが十字架に架かったという事なのです。
私たち人間は本来、最後の裁きの時に炉の火の中に投げ込まれてしまうような存在だったのです。しかし、イエス・キリストが十字架に架かって死んだことによって、その身代わりになってくれたということが書かれているのです。私たちが受けるべき罰を代わりに受けてくれた、だから、私たちは罰を受けなくて良いという事なのです。私たちの罪はキリストの十字架によって赦されたと証言しているのです。
【いい仕事の結果】
そんな都合の良い話があっていいのでしょうか。世間ではおいしい話には裏があると言います。この話にも裏があるのでしょうか。残念ながらと言うか、幸いにしてと言うか、この話には裏はありません。なぜならば、神にとって私たち人間は、それほどに価値のある一人だからです。
私たち一人ひとりの価値は素人目には分かりません。テレビ東京の長寿番組に「開運お宝鑑定団」という番組があります。そこに中島誠之助という日本を代表するような鑑定士が登場します。この方は「からくさ」という骨董屋の店主でその道のプロの中のプロです。日本の伊万里の価値を決める男と言われている人です。私には全く分かりませんが、この人が見て、叩いて「いい仕事してますね」と言ったならば、その焼き物はお墨付きということです。
中島誠之助さんは焼き物を見分けるのが仕事ですが、神はすべてのものを創られたお方なのです。聖書の初め、創世記には人間を創った時の様子が記されています。完成した人間を見た時の神の第一声はどんな言葉だったでしょうか。「だめだこりゃ!」ではないのです。創ったものすべてが「最高傑作だ」と宣言されているのです。もし神の作品を鑑定する人がいたとするなら、必ず一言「いい仕事してますね」と言うはずなのです。いい仕事の結果が私たちひとり一人の人間なのです。
そうであるならば、持ち物全てを売り払って、天の国を買い取ったのは誰でしょうか。そうなのです、それこそ神ご自身だったのです。これが神の愛なのです。神の哀れみなのです。これくらい私たちひとり一人は神の目には尊い存在なのです。かけがえのない、たったひとりの存在なのです。そのように大切な存在なのですから、火の燃える炉に入ってほしくないのです。
このような神の愛を知った者として、今度は神の愛に応えていくことができれば、私たち自身にも大きな喜びになります。その第一歩は、神を愛し、神に創られた自分を愛することです。
神を愛するとは、具体的には感謝を捧げ、神を賛美し、礼拝する事なのです。そして、自分を愛するということは、ありのままの自分をまず、自分自身が受け入れるという事なのです。
私たちは知らず知らずの内に、勝手な鋳型を作って、そこに自分を当てはめようとしていないでしょうか。神の愛はそのような型から私たちを解放し、本当の自分に気づかせてくださるのです。そのままのあなたを愛してくださる方がいるのですから、何も恐れることなく、その愛を受け入れましょう。
祈 り
賛美歌 新生563 すべての恵みの
献 金
頌 栄 新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷
後 奏
2025年2月16日 主日礼拝
投稿日 : 2025年2月16日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー