前 奏
招 詞   詩編42編3節
賛美歌   新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
賛美歌   新生484 救い主 王は
主の祈り
賛美歌   新生134 生命のみことば たえにくすし
聖 書   マタイによる福音書16章13~20節
                    (新共同訳聖書 新約P31)
宣 教   「地上の約束」    宣教者:富田愛世牧師
【ペトロ】
 今日のタイトルは「地上の約束」としましたが、もしかすると似たようなタイトルの歌を思い浮かべる人がいるのではないかと思っています。以前、中島みゆきという歌手の「空と君のあいだに」という歌をメッセージの中で歌いましたが、今日のタイトルも中島みゆきさんの「地上の星」という歌のタイトルをもじってみました。
 今日は歌いませんが、この「地上の星」という歌は、NHKのドキュメンタリー番組で「プロジェクトXー~挑戦者たち~」のオープニング曲として作られたそうです。この番組については知っている方も多いのではないかと思いますが、様々な事件・事故における、無名の人々の知られざる活躍を描いたドキュメンタリーとして始まりました。後半は産業・文化等の様々な分野において、製品開発プロジェクトなどが直面した難問を、どのように克服し成功に至ったかを紹介する番組となりました。
 そういう名もなき人々、知られざる人々に焦点を当てた番組だったので、この歌も見えない存在の価値ということをテーマに作られたそうです。この歌が今日の聖書となんの関係があるのかというと、ペトロという弟子も、聖書によって記録されたから有名になっていますが、イエスの弟子という事だけを見るならば、名もなき人々の一人だったと思うのです。
 今日の聖書箇所で、イエスはペトロという岩の上に教会を建てると宣言されました。しかし、イエスは個人的な人間としてのペトロの上に教会を建てると語ったのではなく、ペトロの信仰告白の上に教会を建てると語っているのです。
 そして、なぜペトロを選んだのかについても、ペトロが優秀な弟子だったからではないと思います。この後、23節を見ると「サタン、引きさがれ」とイエスに叱責され、ユダがイエスを裏切った夜、ペトロはイエスを知らないと言いました。使徒言行録の時代になってからも、ユダヤ人の目を気にして、異邦人との交わりを避けた時、パウロから叱責されているのです。
 ペトロだけではなく、イエスの弟子たちは皆、優秀だったり、信仰的に完璧だったりしたから選ばれたのではなく、不完全な状態で選ばれているのです。そして、この後、様々な訓練を通して成長しましたが、完全になるのではなく、変えられていくのです。

【神の働く場所】
 さて、もう一度13節を見てみると、イエス一行はフィリポ・カイサリア地方におられたことが分かります。イエス一行は何をしにフィリポ・カイサリアに行ったのでしょうか。もちろん神の国を宣べ伝え、人々を解放するという宣教活動も含まれますが、ここでの第一の目的は弟子訓練のためでした。
 訓練という言い方は、個人的に好きにはなれないものなのですが、他の言葉に言い替えるのが非常に難しい言葉だと思いました。言い替えの一つとして「トレーニング」というのがありました。日本語の厳しい言葉を外国語にすると、受け止め方が少し柔らかくなるようですが、基本的には同じ意味なので、敢えて「訓練」という言葉を今日は用いたいと思います。
 このフィリポ・カイサリアは風光明媚な静かな町と言われてきました。イスラエルのイメージは砂漠や岩肌の目立つ、荒涼とした場所を思い浮かべることが多いと思いますが、ガリラヤ湖周辺は緑豊かな場所で、フィリポ・カイサリアはそこから北に40キロ離れていますが、ヨルダン川の源流の一つがあり、実際にきれいな場所らしいです。
 ただ、地理的な位置や経済的な状況、さらには宗教的な背景を考えると静かな場所ではなかったようです。ローマ、インド、アフリカという文化や商業の中継地点に位置し、異教の神殿が立ち並ぶような町。様々な国の人々が行き来する、活気にあふれた町だったようです。
 聖書は宗教家たちの目線に立って書かれている事が多いので、一般常識とは違った見方をする事があります。一般的には、商業的にも発展していて、人々の往来も盛んだったので、美しい街としての評判が高かったようですが、エルサレムの宗教家たちにとっては「堕落した町」と映っていたようです。
 しかし、イエスが語られる神の働きを考えてみてください。神が働かれるのはどのような状況、場所なのでしょうか。イエスは「健康な人に医者はいらない、必要なのは病気の人だ」と語りました。フィリポ・カイサリアを病気の町だという言うのではありませんが、神が働かれるのは神殿より、むしろ、このような町だったのではないでしょうか。

【弟子たちへの問いかけ】
 ここでイエスは弟子たちに質問しますが、これが弟子訓練の基本です。福音書を読むと、山上の説教などが有名なので、いつもイエスは大勢の人を前にして、大衆伝道のように語っていたようなイメージが強いのですが、弟子たちに何かを伝える時は、違う方法を用いていました。
 講義形式に教え込むのではなく「なぜ」と問いかける事によって考えさせているのです。これはイエスの弟子訓練の方法ですが、一般的な教育においても当てはめる事が出来ると思います。本来、学習するという事は、自発的に疑問をもって、それを解決しようとする事だと思うのです。
 訓練という言葉のイメージには、繰り返し何かを教え込むというものがあると思いますが、イエスの弟子訓練とは、繰り返し教え込むことであったり、マニュアル通りに行動するようなロボットを作ることではありません。
 自分の頭で、主体的に考え、それを行動に移していくという、本当の弟子を作ることなのです。しかし、この時点では、弟子たちは、まだその事に気づいていないので、イエスの意図に反して、一般論や人々の評判を答えるのですが、これもイエスにとっては答えではなく、ただ伝えているに過ぎないのです。
 バプテスマのヨハネだと言う人々は、イエスの何を見てバプテスマのヨハネのようだと思ったのでしょうか。神殿中心のユダヤ教、律法主義に凝り固まったユダヤ教に対する反骨精神であったり、真理を見抜く、鋭い視点をイエスに重ね合わせていたのかも知れません。
 エリヤやエレミヤ、預言者の一人だという人々はどうでしょう。時の権力者たちにおもねることなく、保身的にもならず、神の言葉を伝えようとする、預言者たちの姿にイエスを重ね合わせていたのかも知れません。
 いずれにしても、それらは人々の評判であって、一つの意見なのです。教会という存在は意見の上に建てられるものではないのです。

【あなたがたは?】
 イエスは世間一般の評判を聞きたかったのではなく、弟子たちに向かって「あなたがたは」と言われるように、あなたの答えを聞きたかったのです。私たちの思いの中には「間違ってはいけない」という強迫観念のようなものがあり、自信がないのです。だから、一般論を答えようとしてしまうのです。
 しかし、イエスが求めているのは一般論ではなく、誰かの意見でもありません。正しいとか、間違っているという事は関係なく、あなたの答えを聞きたいのです。そして、それは正しいとか、間違っているという評価をすべきものではありません。だから、心配することなく答えて構わないのです。
 イエスの弟子となる、という事は、このように一対一の関係、直接的な関係の中で対話していく事なのです。誰かが言ったという事ではありません。そして、対話するという事は、もし仮に、間違っていたとしても、対話の中で修正していくことが出来るという事なのです。
 イエスの問いかけにペトロは「あなたはメシア、生ける神の子」と答えました。神は抽象的な概念ではありません。ペトロは、今も生きて働いておられる神の子がイエスだと答えているのです。これはイエスについて説明しているのではありません。ペトロの告白であり、宣言なのです。ごちゃごちゃ説明することなく、こんな私に働きかけてくださる、生きた神なのだと告白し、宣言しているのです。
 この信仰告白に対して、イエスは「天の国の鍵を授ける」と語りました。天の国の鍵とは、天国の門を開くための鍵なのです。この鍵はペトロに託されましたが、それは個人としてのペトロではありません。ペトロという岩の上に建てられた教会に託されているのです。
 神の生きた働きは、多くの場合、この教会を通して働かれるのです。バプテスト教会は万人祭司、相互牧会という事を特徴としています。まさしく教会の交わりの中でお互いが支え、励まし、成長していくのです。これが教会の姿なのです。
 ペトロという岩の上に建てられた教会は、ペトロと同じように完璧ではありません。時にイエスの期待に答えることが出来ないばかりか、その期待を裏切ってしまうような弱さがあるのです。しかし、そのような教会が用いられる時、私たち一人ひとりの働きがカギとなるのです。

祈 り
賛美歌   新生566 主に任せよ
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏