前 奏
招 詞   申命記15章9節
賛美歌   新生 14 心込めて主をたたえ
開会の祈り
賛美歌   新生281 み座にいます小羊をば
主の祈り
賛美歌   新生137 うみべの野で
聖 書   マタイによる福音書18章21~35節
                          (新共同訳聖書 新約P35)
宣 教   「赦せますか?」    宣教者:富田愛世牧師
【ペトロの心境】
 今日メッセージのタイトルを見て、この礼拝に来た人がいるとするならば、すごいことだと思います。「赦す」と言うことは口では簡単に言うことができるかもしれませんが、本当に難しいことだと思うのです。ですから「赦せますか?」というタイトルを見た時、私だったら「赦せますかって、そりゃ時と場合によるだろうけど、ほとんどの場合、赦せるわけないじゃん。だって俺は悪くないんだもん」って言いたくなるし、そう思われる方が多いと思うのです。
 私は車の運転をすると感情を抑えることが出来なくなるタイプなのです。ですから割り込みなんかをされると頭にきて、その車の後ろにピッタリと張り付いて、嫌がらせをしてしまうのです。いわゆる「煽り運転」です。そうすると隣に乗っている妻から「やめなさい」と言われるのですが、そういう時に私は決まって「俺が悪いんじゃなく、あいつがマナー違反の運転してるから悪いんだ」と言って、渋々やめるのです。
 このような私ですから、今日の聖書から「みなさんもイエスさまが言われるように、七回どころか、七の七十倍までも、赦しあいましょう」なんて言うことはできません。ペトロのように「七回までですか」と質問することすらできないと思うのです。最初から、私は悪くないし、赦そうとも思わないからです。
 しかし、ペトロはここでイエスに質問しているのです。なぜペトロはこんな質問をしたのでしょうか。考えてみたことがありますか。素直に突然こんなことを思いついたのでしょうか。それともイエスの話を聞いているうちに、自分は赦すことのできる人間だと思い、イエスに褒めてもらおうと思って、こんなことを言ったのでしょうか。他にもペトロの心境を想像するといろいろな理由があげられると思いますが、残念ながら、ここにはその理由は記されていません。
 ただ一つヒントとなりそうなことが、この前の17章24節に書かれています。そこには「神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、『あなたたちの先生は神殿税を納めないのか』と言った。」とあるのです。これはユダヤの税金のひとつで国教であるユダヤ教の神殿を維持するための税金でした。イエスは今までにも、ユダヤの律法に対する規定違反をしていたので、神殿税も払わない気でいると思われていたのかもしれません。しかし、ここでペトロは「納めます」と言い切っているのです。このことが引っ掛かっていたのかもしれないと私は思うのです。神殿税の徴税人たちは無礼なやつらだったけど、ペトロは彼らを赦そうと決めて、イエスにこの質問をしたのかもしれません。
 このようにペトロの心境を想像する時、想像した心境がある意味でそのまま自分の心境と一致しているのではないかと思うのです。

【赦す人】
 いずれにしても、いつも私たちは、赦す側に自分がいると思っているのです。それでは、なぜ私たちは赦す側にいるのでしょうか。それは、先程も言ったように、自分が悪いのではないから、間違ったことをしているわけではないからなのです。はっきり言って正しい人だからなのです。
 人との関係においても、迷惑をかけられることは多いのですが、反対に迷惑をかけるようなことはあまりしていないはずです。外国ではどうなのかは知りませんが、日本人の中には美徳として「人に迷惑をかけてはいけない」ということがあります。小さい頃から多くの人は「人に迷惑をかけることだけはしちゃいけないよ」と教えられて育ってきているのです。私の場合、人の何倍も他人に迷惑をかけていたので、耳にタコができるくらい、家でも学校でも言われてきました。
 このようにして、人には迷惑をかけないけれど、迷惑をかけられてしまうのです。しかし、そんな時も相手が自分の非を認め、素直に謝ってきた場合は、こちらも「お互いさまよ」なんて言いながら、赦すことができるのです。でも時々、自分の非に気づかない人や、開き直ってしまう人がいます。
 そんな時は、やっぱり赦すことが難しくなります。ここで赦したら、相手のために良くないといって、攻撃するわけです。ここで甘やかしたら、他の人も同じような目にあってしまうから、ここは私が鬼になって無礼者を更生させるのだ。などと考えてしまうのです。
 そんな私たちにイエスは「七回どころか七の七十倍までも」赦しなさい。と命じられるのです。真剣に聴くならばとても難しい課題となります。

【根本的な罪】
 しかし、ここに根本的な問題があるのです。それは、私たちが自分自身を正しい人だと思い込んでいると言うことです。中には、そんなこと思っていませんという方もいらっしゃるでしょうが、そのような人でも、あの人よりはましかな?と相対的な正しさは認めてほしいという願いを持つ時があると思います。
 この点について聖書は何と語っているでしょうか。ローマの信徒への手紙3章10節には「正しい人はいない。一人もいない」と書かれています。神は「正しい人はいない」とはっきり宣言されています。また、イエスは、私が来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためであると語っておられるのです。そうするならば、自分を正しいとする時、私たちはイエスとの関係を拒絶することになってしまうのです。
 私たちが神との関係、イエスとの関係を作っていこうとするならば、自分自身を見つめなおさなければなりません。そして、自分自身を見つめなおす時に発見してしまうことの一つが、醜い心の一部分なのです。
 自分が正しいと言い張る時、本当は言い張らなければならないくらいの、後ろめたさがあると言う事なのです。動物でも人間でも似たようなところがありますが、自分の弱さを隠すために、虚勢を張るということがあります。
 私が若い頃は、髪型や服装で相手を威圧しようとしていました。でもよく考えると、この相手って一体誰なのでしょうか。別に町を歩いている、みんながみんな、私を目の敵にしているわけではないのに、何となく、何かを恐れているのです。
 そういった恐れ、恐怖心から人は自分を強く見せようとしたり、正しく見せようとしたりするのです。それは本当の自分の姿を見破られることに対する恐れなのです。この恐れをなくす方法は、隠すことではなく、認めていくことしかありません。

【赦される人】
 私たちが謙虚な心を持って、聖書の言葉を受け入れていくならば、考え方や価値観といったものが変わっていくのではないでしょうか。そして、自分の正しさは相対的なもので、絶対的な正しさではないことを認めざるを得なくなるのです。
 自分は正しくないのだ、正しいとか義人だと言い張るところに傲慢という罪があると認めなければなりません。そして、私こそが本当は赦されなければならない罪人の一人であると受け止めることができるならば、実行するのが難しいと思えた、イエスの言葉「七回どころか七の七十倍までも」赦しなさい、という言葉が大きな慰めの言葉に変えられるのです。
 日本人の中には聖書を誤解している人がたくさんいます。いろいろな人たちと話をしていると、聖書の言葉を宗教的な規則や戒律のように捉えている人に出会います。クリスチャンであってもクリスチャンでなくても、そのように「・・・ねばならない」言葉として、聖書の言葉を受け止めている人が非常に多いのです。日本人はまじめですから、そのように受け止めるのかもしれませんが、私はとても残念なことだと思っています。
 教会では、よく「聖書は神さまからのラブレターです」と言います。もしラブレターだとするならば「愛する~さんへ。あなたはこうしなければならない、ああしなければならない」なんて書くでしょうか。
 昔、さだまさしサンと言う歌手が「関白宣言」というヒット曲を出しました。「お前を嫁に、もらう前に、言っておきたい、ことがある。かなりきびしい、話をするが、俺の本音を、聞いてくれ。俺より先に寝てはいけない、俺より後に起きてもいけない、飯は上手く作れ、」と続いていくわけですが、ある意味これが日本人の愛情表現なのだと言われるかもしれません。でもこれは愛情表現ではなく、甘えの構図そのものだと私は思います。
 ラブレターとは、こうなってほしい、ああなってほしいではなく、あなたのここが好き、あそこが良い、というように、相手の素敵なところ、長所を認めて、さらに、そんなあなたのために私はこうする、ああすると書きつづっていくものだと思うのです。そうするならば聖書の読み方が、かなり変わってくるはずです。そこに書かれているのは宗教的な規則や戒律ではなく、神からの慰めであったり、神からの赦しのことばであったり、愛に満ち溢れた神の言葉となっていくのです。
 「赦せますか?」と問われているのではなく「あなたをとことん赦していきます」と言う神からの語りかけに耳を傾けてください。

祈 り
賛美歌   新生407 主と共に
主の晩餐  
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏