前 奏
招 詞   レビ記19章13節
賛美歌   新生 14 心込めて主をたたえ
開会の祈り
賛美歌   新生583 イエスにある勝利
主の祈り
賛美歌   新生 41 いとも慕わしきイエスの思い
聖 書   マタイによる福音書20章1~16節
                       (新共同訳聖書 新約P38)
宣 教   「働き方改革」    宣教者:富田愛世牧師
【自分の立場】
 今日は「働き方改革」というタイトルを付けましたが、そもそも、働き方に決まりというものがあるのでしょうか。改革という言葉の意味は「従来の制度などを改めてより良いものにすること」と辞書に書かれています。従来という事ですから、以前から今まで行われていた制度という事ですが、以前とはいつまで遡るのでしょうか。
 近年、行政主導で働き方改革が進められていますが、それは高度経済成長期以降の日本社会における働き方だろうと思うのです。私が20代の頃は「24時間働けますか」とか「亭主元気で留守がいい」等というCMが流れ、休みなく働くことが最優先されていました。
 そのような働き方によって出てきた、様々な弊害に対して、改めた方が良いだろうという事で働き方改革が推進されてきたのだろうと思います。
 今日の聖書にはぶどう園の主人とそこで働く労働者のやり取りが、たとえ話という形で描かれています。そして、この話を理解するために、前提として捉えておかなければならないことがあります。それは、現代社会に生きる私たちは資本主義経済というシステムに染まっているという事です。そして、この資本主義経済には「成果主義」や「能力主義」というシステムが欠かせないという事です。
 それに対して、このたとえ話にある雇い主と労働者の間にある賃金契約は、資本主義経済の原則に従うのではなく、独裁者による自由裁量によって賃金が支払われているという事です。
 このたとえ話を読む時、私を含む、多くの人は不公平感を感じるのではないかと思います。朝から働いた人と、夕方5時に来て、1時間しか働かない人が同じ賃金をもらうのは不公平だと感じるのです。
 しかし、ここで一つ考えなければならないのは、自分をどの人に当てはめるかという事なのです。朝から仕事をした人なのか、9時からの人なのか、12時からの人なのか、3時からの人なのか、それとも5時からの人なのか、それによって受け止め方が変わってくるのです。

【朝から働いた人たち】
 自分を何時から働いた人に当てはめるかを考えるためには、それぞれがどのような立場にあったかを見ていきたいと思います。初めに朝から働いた人はどういう人なのでしょうか。
 当時の労働環境について確実なことは分かりませんが、一部の富裕層が多くの貧困者を労働力として使っていたようです。このぶどう園の主人も多くの労働力を必要としていました。ですから朝早く、日が上ったころに町の広場に行き、その日働いてくれる労働者を雇いに行ったのです。
 そこにいたのが、朝から働いた人たちです。日の出とともに町の広場に出かけていき、その日の暮らしのために職を求めていたのです。とても真面目で勤勉な人を想像することが出来ると思います。
 そして、運のいいことにぶどう園の主人の目に留まり、一日一デナリオンで働くという約束を取り付けたのです。その日の仕事にありつけるというのが、当たり前のことではなかったと思うので、運が良かったのだと思います。さらに、賃金の一デナリオンにしても、これは極めて妥当な賃金だという事です。
 雇い主と労働者の関係は、現代のように対等な関係でなく、圧倒的に雇い主が有利な立場にいたわけですから、一デナリオン以下で働かされる人も多かったと想像できます。そういう意味でも、この人は運が良く、その労働は過酷だったかもしれませんが、安心して働くことが出来たと思うのです。
 それに対して、9時に雇われた人はどうだったのでしょうか。きっと仕事にあぶれてしまった人だと思うのです。あぶれてしまったけれど、もしかすると人手の足りない農園があって、そこの主人が雇ってくれるかもしれないという期待をもってそこにいたのだと思います。
 この人は主人から「ふさわしい賃金」を支払うという約束で働きに行くのですが、いくらもらえるかは分かりませんでした。仕事にありつけたことは良かったけれど、いくらもらえるか不安の中にいたと思います。

【朝から働けなかった人たち】
 次に出てくるのが12時と3時に雇われた人たちです。この人たちも9時に雇われた人たちと同じように、何もしないで町の広場に立っていました。ぶどう園の主人が9時に広場に行った時にはいなかったようです。
 なぜなのかは分かりませんが、いくつか想像できると思います。もしかすると他の農園に雇われたけれど、途中で解雇されたのかも知れません。農園主が期待したような働きをしなかったので、お前はもういらないと言われて帰されたのかも知れません。
 また、朝早くに起きることが困難な人たちだったかもしれません。様々な理由が考えられますが、身体的に朝起きることが難しい人もいるわけですから、そういう人だったかもしれませんし、ただの怠け者で朝起きなかったのかも知れませんし、お調子者で前の日は良い仕事にありついていて、気前良くなって夜、お酒を飲み過ぎて、二日酔いで起きれなかったのかも知れません。
 いずれにしても、12時と3時に何もせずに広場にいたという事実だけが分かることなのです。そのような人たちに向かって、このぶどう園の主人は9時の人たちと同じように声をかけているのです。
 そして、「ふさわしい賃金」を支払うと約束して、彼らをぶどう園に連れて行くのです。今日はもう仕事がないからどうしようと大きな不安の中にいたと思うのです。それがこの主人に雇われることによって大きな安心を得ることが出来たと思います。これでひもじい思いをしなくて済む、そんなことを感じていたと思うのです。
 そして、最後に5時に雇われた人たちはどうだったのでしょうか。5時まで何をしていたのでしょうか。しかし、彼らは「だれも雇ってくれないのです」と答えています。という事は、仕事をしたいと願っていたという事です。しかし、誰も雇ってくれなかったのです。なぜでしょうか。
 彼らを見た雇い主たちは、その見た目である程度の判断をしたのではないでしょうか。期待する能力を持っていそうもない顔だったのかも知れません。期待する成果を出すことが出来そうもない体型をしていたのかも知れません。真相は分かりませんが、彼らは誰にも雇われず、一日中、広場に立ち、今日も仕事にありつけなかった。この先どうやって暮らせばいいだろうという恐れと不安の中にいたでしょう。

【神からの恵み】
 さて、日が暮れて終業時間になりました。労働者たちに賃金を支払う時間になりました。このぶどう園の主人は労働者たちを集め、夕方5時から働いた人たちから、順番に賃金を支払うわけですが、1時間しか働かなかった人たちに1デナリオンを支払いました。
 それを見ていた朝から働いた人たちは、もっともらえると期待したのです。当然の事だと思います。私がそこにいたとしても同じように期待したはずです。しかし、朝から働いた人たちの番になり、賃金が支払われると1デナリオンでした。当然、彼らは不平を言うわけです。
 しかし、ぶどう園の主人は約束通り支払ったのだから、不平を言うのはお門違いだというのです。確かにその通り、だけど、納得いかないと思うのです。
 納得いかないのは、最初に言ったように、私たちが資本主義経済というシステムにどっぷりと浸かっているからなのです。成果主義や能力主義という常識の中で生きてきてしまったからなのです。
 それに対して、神の国は成果主義や能力主義から解放された世界なのだと語っているのです。
 私たちは何時間働いたと言って、時間数をカウントしたくなるのです。そして、長ければ長いほど、たくさん働いた忠実な労働者だと認めてもらいたいのです。また、その働きによって、こんなに多くの成果を出しましたと言って、能力を認めてもらいたいと思うのです。
 しかし、神はそんなものは求めていないのです。その人が、その人にふさわしい働きをして、働けたことを喜ぶことが出来たのなら、それが神の喜びでもあるのです。そこにいる愛すべきあなたに対して「同じように支払ってやりたいのだ」と語られるのです。
 この賃金は、神からの祝福であり、恵みです。私たちが自分を振り返るなら、祝福を受けるにふさわしいものではないことに気付かされます。しかし、そんな私たちに対して、神は祝福してやりたいのだ。恵みを与えてやりたいのだと言ってくださるのです。

祈 り
賛美歌   新生567 み神こそわが望み
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏