前 奏
招 詞 出エジプト記13章9節
賛美歌 新生 14 心込めて主をたたえ
開会の祈り
賛美歌 新生 16 み栄あれ愛の神
主の祈り
賛美歌 新生363 キリスト教会の主よ
聖 書 マタイによる福音書23章1~12節
(新共同訳聖書 新約P45)
宣 教 「有言不実行」 宣教者:富田愛世牧師
【不言実行】
今日は「有言不実行」という変なタイトルを付けましたが、元々は「有言実行」という言葉があり、多くの人に知られていると思います。私もそうなのですが「言ったからには、しっかりと実現したい」と多くの人が思うのではないでしょうか。「有言実行」とは、そのような有名な格言として広まっていると思います。
ところが、今回あらためて「有言実行」という言葉を調べて分かったことがあります。漢字四文字なので、昔からある四字熟語だと思われているようですが、そうではありませんでした。元々は「不言実行」という四字熟語があって、この言葉から作られた造語のようなものだという事です。
そして、この「不言実行」という言葉は「いちいち口に出さずに実行することだ」と解釈されてきましたが、本来は論語を由来とした言葉で「人の上に立つ人はまず実行する。言葉はその後だ」ということや「一度口に出したら必ず実行しなければならない。だから、慎重に言葉を選び軽々しい口をきいてはならない」ということらしいのです。
このように、言葉の意味や成り立ちなどを調べていたら、今日の聖書にも通じるような気がしました。皆さんはいかがでしょうか。イエスが非難した律法学者やファリサイ派の人々は、民衆に対して律法を守るように指導していました。そして、自分たちの生活も律法に則った生活をしていたのです。
そうだとするならば、律法学者やファリサイ派の人々は有言実行の、見倣うべき人々だったという事ですが、イエスはそのように感じていなかったようなのです。
なぜかというと、イエスの語る福音と論語には、共通する部分もたくさんありますが、根本的な考えは、まったく違っていたということではないかと思うのです。
【律法学者とファリサイ派】
さて、今日の聖書ですが、イエスは弟子たちと群衆に向かって話をし始めました。「弟子たちと群衆に向かって」という事ですから、何となく5章に記録されていた「山上の説教」のような場面を思い浮かべます。
ここでイエスが語ったことは、律法学者やファリサイ派の人々が語ることは、モーセに与えられた律法に則ったことであるから、それらを守るべきだという事なのです。ここを読むと、珍しくイエスが正論を語っているなと思ってしまうのです。
もちろん、イエスの語る言葉は間違いではありません。しかし、当時の宗教的な常識においては、そのほとんどが常識はずれな事柄だったはずです。つまり、当時の常識からするならば、イエスの言葉は正論ではなかったという事です。しかし、ここでは当時の常識に当てはめたとしても正論を語っています。
ただし、律法学者やファリサイ派の人々のいう事は正しいけれど、彼らの行動は見倣ってはいけないと語るのです。何故なら、彼らは人々に向かって、律法を守るように言うけれど、自分たちは実行しないからだというのです。
まさに今日のタイトルにある通り「有言不実行」なのです。律法を守るようにと言っているという事ですから、例えば、安息日を守りなさいとか、律法に規定されている献げものを献げなさいと、口では偉そうにいうわけです。しかし、人々がそれを実行するための手助けは何もしないというのです。
さらに、私は疑い深い人間なので、律法学者やファリサイ派の人々は律法を守っていたのかなと思ってしまうのです。しかし、この点については、しっかり守っていたようです。ただ、その守り方は律法の本質に照らしてみるならば、ちょっと違うというようなこともあったのではないでしょうか。
その本質的な意味を理解して守っていたというより、現象として守っていたように思えます。なぜなら、イエスが5節以降で語るように「人に見せるため」だったからなのです。
さらに、律法学者やファリサイ派の人々に対して、見た目を気にして、宗教家らしいものを身に着け、人々から先生と呼ばれることで、気持ちよくなっているという事なのです。彼らの実体は、そのような見てくればかりを気にするような、中身のない人間だと言って非難しているのです。だから、彼らの行いを見倣ってはいけないというのです。
【徳のある人】
そして、11節にあるように「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と語るのです。しかし、この考え方は、世の常識とは違うものなのかもしれません。
数年前から、アメリカのメジャーリーグで話題となっている大谷翔平選手のことを、皆さんよくご存じだと思います。大谷選手の優れている点は、素晴らしい選手であるにも関わらず、その謙虚な姿勢というものが評価されているわけです。
昨年、何度もスポーツニュースで同じような場面を見ましたが、グランドにゴミが落ちていたとするなら、大谷選手は当たり前のように、そのごみを拾っているのです。私にとっては当たり前に思えますが、欧米では少し違うようです。
欧米では、それぞれの役割が明確になっていて、ゴミは行政に雇われている清掃員が片付けるものなのです。それを私が拾ってしまったなら、清掃員の仕事を奪ってしまうことになるので、ゴミを拾ってはいけないと言われるそうです。
今でもそうなのかは分かりませんが、昔そう言われたことがありました。また、最近のグローバル化した社会でも似たようなことが起こっているように感じます。一時期「江戸しぐさ」というのが流行りました。小学校の道徳の教科書にも載ったそうですが、今は江戸しぐさに歴史的な信ぴょう性がないされているそうです。
しかし、人が人に対して、失礼がないように、また、相手だけでなく、自分も気持ちよく過ごせるように、お互い配慮することは大切なことで、雨の日に細い道ですれ違う時、傘を少しだけ傾げるとか、電車の席に座る時、後から来る人のためにこぶし一つ開けて、浅く腰掛けるとか、そういった配慮は大切で、イエスの語る「へりくだる者」とは、そのような配慮のできる人ではないかと思うのです。
【有言不実行】
先に出てきた律法学者やファリサイ派の人々は有言不実行で良くないと非難されているように思えますが、イエスが非難するのは、相手に対する配慮、思いやりの無さ、そして、自分を正当化する姿勢ではないかと思うのです。
最後に今日のタイトルである「有言不実行」と、この言葉から連想できる行動のパターンが3つあります。不言実行、不言不実行、そして、有言実行です。
それぞれについて見ていきたいと思いますが、最初に多くの人が「これが一番良い」と思っているであろう「有言実行」ですが。イエスもこれが一番良いと思っているでしょうか。
先ほど話題に出した大谷選手は、まさに有言実行の代表選手だと思います。でも、それが出来るのは一部のカリスマなのです。自分で発信して、自分で行う。一人で完結しているのです。それはそれで良いと思います。しかし、教会のわざとして見るならば、これは個人の能力に左右されることなので、教会のわざにはなりにくいかもしれません。
次に不言実行は、何も言わないけれど、やるべきことはやるという、最初に言ったことです。上に立つ人はまず実行しろ。言葉は後からだというのですが、これだと周りの人は何をやっているのか分かりません。個人で何かをする場合は良い結果が出そうですが、これも教会のわざとして見るならば、一部のカリスマ的指導者が「俺について来い」的な伝道を展開するなら良いかもしれませんが、それでは教会のわざにはなりません。何をするのかを伝えなければならないでしょうし、働きに周りを巻き込むことが出来ないので、教会のわざにはなりにくいように思えます。
不言不実行はどうでしょう。何も言わず、何もしない。という事ですから、一番よくないかもしれません。しかし、大きな組織にいると、それが賢い処世術となるかも知れません。教会のわざとしてみても、非常に難しいと思います。
それでは、今日のタイトル「有言不実行」はどうでしょう。言うことだけ言って、何もしない。もしかすると「不言不実行」より悪いと思う方もいるでしょう。しかし4節を見ると「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」とあります。
イエスが前提としていることは、自分一人の力で律法を守れということではなく、律法という重荷を負わせるとき、それを一緒に担ぐとか、担げるように手助けすることが前提となっているのです。
そう考えるなら、有言不実行とは、何か良い案があれば、出来てもできなくても、周りの人に伝える、提案することが大切なのです。そして、出来なかったら不実行だと非難されるかもしれませんが、イエスの考える前提は一人でやることではありません。出来なければ「手伝って」と更に伝えればよいのです。そして、周りを巻き込んで、一緒に成し遂げていくということではないでしょうか。このような働きこそが、教会のわざとなっていくのです。
祈 り
賛美歌 新生661 聞け 主のみ声を
献 金
頌 栄 新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷
後 奏
2025年3月23日 主日礼拝
投稿日 : 2025年3月23日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー