前 奏
招 詞 エゼキエル書18章16~17節
賛美歌 新生 14 心込めて主をたたえ
開会の祈り
賛美歌 新生 27 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
賛美歌 新生229 十字架のもとに
聖 書 マタイによる福音書25章31~46節
(新共同訳聖書 新約P50)
宣 教 「スラムの中に」 宣教者:富田愛世牧師
【世の終わり】
今日の聖書箇所を見ると、新共同訳聖書では「すべての民族を裁く」という小見出しが付けられています。この箇所は、この世界の終わりの日について、イエスがたとえを用いて語っているようです。その日には、世界中の人々が一つところに集められ、神の裁きを受けるというのです。
ただ、現実的には、世界中の人が一つの場所に集められるわけがありませんので、比喩的表現として語られているわけです。比喩的表現という事は、この話の一部は現実的で、他の部分が比喩だということではなく、全体を通して比喩的に語られているという事です。
聖書の中にはたくさんの比喩的表現があります。比喩には直喩と暗喩という二種類があり、聖書では多くの場合暗喩、メタファーと呼ばれる比喩が用いられています。例えば、動作の遅いAさんという方がいたとします。「Aさんはカメのように遅い」という言い方が直喩で、「Aさんはカメだ」というのが暗喩、メタファーなのです。
Aさんはカメではありません。しかし、動作が遅い。カメは動作が遅い、動作が遅いという共通点において、Aさんはカメだ、という言い方が一般的な暗喩、メタファーなのです。
つまり、世界の終りの日には、すべての民が裁かれるようなことが起こるというのです。私たちは聖書に書かれている「裁き」という言葉に敏感に反応し、自分が裁かれるのではないかと心配になり、恐れを抱いてしまいます。
しかし、聖書は私たちを脅しているのではありません。確かに裁きの日と呼ばれる、世界の終わりの時はやってくるのです。しかし、その時に、あなたは天国に行きなさい、あなたは地獄に行きなさいというように、私たちが選別される時だと短絡的に受け止めてはいけないのです。
ここで大切なのは、神は何処にいて、私たちとどのような関係を持っているのかという事なのです。そして、その神が愛されている人は、どのような人なのかという事なのです。さらに、私たちは、自分勝手にイメージする神の姿と、神が聖書を通して、私たちに示される、神の姿が、かけ離れているという事に気付かされていくのです。
【右側の人々】
さて、それでは、世界の終りの日にどういうことが起こるかを、聖書に書かれている順番に従って見ていきたいと思います。
32節と33節を見ると「すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」とあります。私たちを右と左に分けられるというのです。
これも先ほど言ったように暗喩、メタファーとして書かれていることですから、直接的に受け止めるのではなく、左右に分けられるような状況がやってくるという事です。
そして、右の人々に向かって「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」という祝福の言葉が投げかけられるのです。
その理由として、35節以下にあるように「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」というのです。
しかし、37節以降にあるように、右側の人々には自覚がないのです。なぜなのでしょうか、きっと彼らにとっては、特別なことではなかったからなのです。特別なことではなかったという事は、普段から他人に親切だったということでしょうか。もしかするとそうかもしれません。
もう一つの考え方があります。それは、彼ら自身が飢え、渇き、宿無しであり、裸であり、病気であり、牢に閉じ込められていたからではないでしょうか。40節で語られる「最も小さい者」の一人だったのではないでしょうか。
彼らは皆、飢え、渇いていたのです。だから、互いにわずかな水と食料を分け合っていたのです。当時の人が、現代人のように旅行に出かけたでしょうか。観光地に行ったでしょうか。そんなことはあり得ません。宿を確保せずに旅に出るという事は、それなりの事情があったという事です。旅というと聞こえは良いですが、行く当てもなく彷徨う宿無し、浮浪者という事です。着るものもなく、病気になっても誰にも頼れず、牢に入れられるような素行の人々だったのです。
【左側の人々】
それに対して、左側の人々とは、どのような人々だったのでしょうか。42節以降を見ると「わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ」というのです。
左側の人々は、飢え、渇いた人を見たときに、食べ物や水を与えなかったのでしょうか。旅人に宿を貸さなかったのでしょうか。裸のときに着せなかったのでしょうか。病気や牢にいたときに訪ねなかったのでしょうか。そんな意地悪な人々なのでしょうか。
もしかすると、中にはそんな意地悪な人もいたかもしれません。しかし、左側の人々の中の多くは気付いていなかったのではないでしょうか。
なぜなら、彼らの周りには、飢え、渇き、宿無しであり、裸であり、病気であり、牢に閉じ込められていたような人がいなかったからなのではないかと思うのです。もしくは、いたとしても隠されていたのではないでしょうか。
現代の日本社会では、そのような人々は隠されています。数年前に北九州で幼い子どもと母親が餓死した事件がありました。現代の格差社会の中で、貧困によって飢え、渇いている人々はいるのです。今日、食べるものがない、水道も止められている。そんな人がいるけれど、隠されているのです。
ここでは旅人となっていますが、これも聖書的な言葉を使うなら、異邦人や寄留者と表現することが出来ると思うのです。日本は「難民鎖国」と言われ、難民認定率2パーセントという驚異的な低さを誇っています。最近では「技能実習生」という体の良い言葉で、奴隷制を導入していると世界からは非難されています。実体のない誹謗中傷、フェイク動画の拡散で、不良外国人問題が取りざたされています。
宿を貸さなければならないような旅人がいるのに、気付かないのか、気付かないふりをしているのか、さらには教えられていないから知らないと開き直るのか、それが私たちの現実かも知れません。
裸の人、病人、前科者についても同じように隠されていて、気付かない、気付こうとしないという現実があるのです。
【神は何処に】
それでは、世界の終りの日に、すべての人々を右と左に振り分けられる王は何処にいたのでしょうか。話の流れからするならば、この王さまは、王宮にいて、ごちそうを食べ、酒を飲み、きらびやかな王服を着ていたわけではなさそうです。
この王さま、つまり、神は何処にいたかというと、それは40節で告白しているように「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というように「最も小さい者」がいたところに神もいたと理解しても良いのではないでしょうか。
もちろん、直接一緒にいたとは言っていません。しかし、隠喩、メタファーという流れの中で理解するならば、そう理解して構わないと思うのです。
そして、神がいた場所とはスラムのようなところだったという事なのです。そこには飢え、渇く人々がいたのです。宿無し、寄留者がいたのです。裸という事は、服がないだけではありません。プライバシーを奪われ、裸をさらけ出された人々がいたのです。
さらに病気の人、これも肉体的な病だけでなく、心の病も含まれます。牢にいたという事は犯罪者です。しかし、犯罪者と一括りにすることには危険があります。時の政治、権力者によっては、自分に都合の悪い人が犯罪者に仕立てられることがあります。冤罪ということも、当たり前のように存在しています。
他の宗教の神さまはどうなのか分かりません。しかし、聖書の語る神は、このような社会の底辺におられるのです。
私たちは、特にクリスチャンと呼ばれる人にとって、神は何処にいるのでしょうか。神殿にいるのでしょうか。教会にいるのでしょうか。しかし、そこには神はいないのです。
神は最も小さい者として、私たちと出会ってくださるのです。最も小さい者と言うとイメージが固まってしまいますが、ここに描かれている人々をイメージするなら、私たちは、そのような人々と出会う場を持っているだろうかと、問われるのです。そのような人に気付かないで、平穏無事な生活を求めてしまうのです。
祈 り
賛美歌 新生146 み栄とみ座を去り
献 金
頌 栄 新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷
後 奏
2025年3月30日 主日礼拝
投稿日 : 2025年3月30日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー