前 奏
招 詞   詩編69編22節
賛美歌   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
賛美歌   新生221 血しおしたたる
主の祈り
賛美歌   新生230 丘の上に立てる十字架
聖 書   マタイによる福音書27章45~46節
                             (新共同訳聖書 新約P58)
宣 教   「神に見捨てられた人」    宣教者:富田愛世牧師
【愛の神】
 今日、読んでいただいた聖書箇所は、イエスが十字架の上で語った七つの言葉のうちの一つです。今日はこの言葉を中心に、イエスの十字架と死について考えていきたいと思っています。
 イエスの十字架という出来事は、教会の中では当然の事として語られますが、一般的に考えるなら、なぜイエスは十字架で死ななければならなかったのか?という疑問が出てくるのです。この問いに対して、神は愛であると同時に義の神でもあるから、十字架という贖いのわざが必要だったのだと語られてきました。
 これだけではよく分からないと思いますので、愛の神と義の神ということから、見て行こうと思います。はじめに愛の神という事が語られますが、愛の神とはどういうことなのでしょうか。
 それは、神がこの世界を、特に人間を愛しているという事なのです。神が人間を愛しているという事について聖書はどう語っているのでしょうか。
 まずは、聖書の最初にある創世記を見るならば、天地創造の場面で、神はご自分に似せて人間を創りました。そして、天地万物を創造した締めくくりとして、人間を創り、完成した人間を見て「良し」とされました。それは、人間に対して「最高傑作」だと最高の誉め言葉を与えられたという事なのです。
 創作活動をされている方なら、よく分かると思うのですが、自分で納得のいく作品が出来た時の喜びはとても大きいし、その作品に対する愛着、愛情は大きなものになると思います。神の人間に対する思いというものは、それ以上のものなのです。
 さらに、ヨハネによる福音書3章では「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と書かれています。その独り子を失っても良いくらい、人間を愛している。それが神の愛だという事なのです。

【義の神】
 次に、同じ神が「義の神」でもあるということですが、ここで語られる義とはどういうことなのでしょうか。また、神という概念についても考えていかなければならないと思います。
 なぜなら、日本という文化の中で神というものは、神話の世界に出てくるものであったり、人間の知恵では理解できないものであったり、自然の偉大さを伝えるもの、山や川、大きな木や岩など、さたには偉大な人物、例えば菅原道真は福岡の大宰府天満宮に祀られて神になったり、天皇が神になったりしています。
 このような神概念と聖書の語る神は全く別物です。同じ漢字が使われているので同列においてしまいそうですが、違うものだということを頭に入れておかなければなりません。
 聖書の神は、何かが神になるということではなく、すべての根源、創造主という事なのです。すべての根源ですから、今、話題としている義についても、神の意思が義であるという事なのです。
 日本社会において、義、正しさ、正義と呼ばれるものは、法治国家なので、法に照らして、正しいかどうかが諮られます。つまり、評価基準となるものが法であるという事なのです。それに対して、聖書は神が全ての評価基準だと語っています。神が全ての基準だから、神が義なのだという事なのです。
 日本社会において、法が義の基準になっていますが、法は完全なものではありません。そして、結論から言えば、法には愛がないのです。つまり、愛のない義、愛のない正しさなのです。愛のない義、正しさは、時に冷酷なものとなって、人を傷つけます。
 しかし、神の義は、愛に基づいた義なのです。ですから、罪によって裁かれなければならないような人を救おうとするのです。神の義とはそのようなものなのです。

【罪の裁きと救い】
 それでは、神は愛であると同時に義の神でもあるから、十字架という贖いのわざが必要だったのだと語られてきたわけですが、人を救うためには、何が必要なのでしょうか。
 ローマの信徒への手紙3章23節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と書かれています。罪を犯したために、神の栄光を受けられないと言われても、神の栄光っていったい何なのでしょうか。ここでは、神によって義と認められる事を意味しているようです。
 さらに、同じローマの信徒への手紙6章23節では「罪が支払う報酬は死です。」と書かれています。すべての人は罪を犯しているので、その罪のゆえに滅びるしかないというのです。しかし、同じローマの信徒への手紙6章23節には続きがあり、そこには「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」と書かれているのです。
 主キリスト・イエスによる永遠の命が与えられているというのです。どうやって与えられるのでしょうか、それはイエスが全ての人の身代わりとなって死ぬという事なのです。
 ただ、そう言われても、イエス一人が死ぬだけで、すべての人の身代わりになれるのかという疑問がわいてくると思います。その問いに対して、聖書はイエスは神の独り子であると語っています。
 イエスは人として、この世に生まれてきましたが、神はイエスを「わたしの愛する子」と宣言しているのです。マタイによる福音書3章に、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時のことが記録されていますが、その17節には、イエスがバプテスマを受けて水から上がって来たときに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえたとあります。
 イエスは人であると同時に、神の子、神だというのです。だからこのイエスが身代わりとなることで、人類が救われると言うのです。

【神に見捨てられた人】
 さらにイエスは十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と大声で叫ばれたと記録されています。この言葉はアラム語で語られた言葉を福音書記者は、そのまま記録しています。それくらい印象的な言葉だったのだと思うのです。続けて「これは、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という意味だと記録しています。
 神は愛の神で、全人類を愛しています。ですから、誰ひとりとして見捨てることはなさいません。しかし、ただ一人だけ、神に見捨てられた人がいるのです。それがイエスなのです。
 神がイエスを見捨てるという事は、神ご自身が、社会の最底辺にまで下って来られたということを意味しています。それは、神が愛と義の神だから成すことのできる業なのです。
 また、神はすべての基準だと話しましたが、すべての基準なら、別にイエスを身代わりにしなくても「赦す」と宣言すれば良かったのではないかと思う方もいると思います。
 しかし、それでは人は納得しません。なぜなら、人は愚かな正義感を持っていて、その基準に合わせてものごとを考え、判断しようとするからなのです。人の愚かな正義感は、勧善懲悪を良しとするのです。水戸黄門や大岡越前といった時代劇のファンが沢山います。「お前も悪よの」と言って薄笑いをする悪人たちが私利私欲のために他人を陥れますが、最後は印籠を出したり、大岡裁きによって、悪は裁かれ、善人は助けられるというのがスッキリして、気持ちいいのです。
 悪に対しては、徹底的に罰をあたえる必要があるのです。つまり、裁きがなければ納得できないのです。それは、正しい人が良い思いをして、悪人が良い思いをするのは赦せないという、正義感なのです。
 神は人間の愚かさを知っているので、敢えて、人の基準に合わせて、人が納得できるようにとイエスを十字架に付けられたのです。
 イエスの十字架は、私たちの罪の身代わりです。と言いますが、神の全能の力の前には、イエスが十字架に架からなくても良かったはずです。そんなことしなくても、御自身が基準なのですから、人類を救うことが出来たのです。
 しかし、それでは都合が良すぎる。納得できないという、かたくなな、愚かな正義感を捨てることのできない、私たちのために、イエスは苦難の道を歩まれたのです。

祈 り
賛美歌   新生515 静けき河の岸辺を
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏