前 奏
招 詞   詩編32編1~2節
讃 美   新生  4 来たりて歌え
開会の祈り
讃 美   新生240 救いの主はハレルヤ
主の祈り
讃 美   新生242 主は生きたもう
聖歌隊賛美 「この日主イエスは復活された」
聖 書   マタイによる福音書28章1~10節
                      (新共同訳聖書 新約P59)
宣 教   「おはよう!」    宣教者:富田愛世牧師
【安息日から】
 イースターおめでとうございます。イースターという日は、教会にとってクリスマス以上に大切な日だと思うのですが、クリスマスは固定祝日と呼ばれる決まった日、つまり、毎年12月25日と決まっているので、覚えやすいし、イエスの誕生日だという事で、日本でも受け入れやすかったので、広まったのだと思います。
 それに対して、イースターは移動祝日と呼ばれ、毎年同じ日ではなく、様々な条件によって移動してしまう祝日なのです。イースターの決め方は、春分の日以降、最初の満月の日の次に迎える日曜日となっています。これだけでも解りにくいのに、春分の日も移動祝日で、3月20日か21日となっています。
 今年は3月20日が春分の日でしたが、その後の満月の日というのが、先週の日曜日でした。日曜日の夜は雨が降っていたので、月を見ることはできませんでしたが、その日の次の日曜日がイースターという事なので、今日となりました。それにしても、認知度は低いような気がします。
 今日、与えられた聖書箇所は、マタイによる福音書28章1節から10節となっています。実は2023年のイースターにも同じ箇所からメッセージを語っているので、覚えている方は「またか」と思われるかもしれませんが、聖書の面白さというのは、同じ箇所を読んでも、その時の年齢や背景、状況によって受け止め方が違ってくるのです。
 基本的なメッセージは変わりませんが、焦点の当て方が違うので、新しい発見があるのではないかと思っています。
 1節を見ると「さて、安息日が終わって」とあります。イエスが十字架に架かったのは金曜日だったので、その日の日没から安息日になってしまいました。ですから、十字架から降ろされたイエスの遺体については、簡易的な埋葬しかできなかったようです。そのために、安息日が明けた朝早くに、女性の弟子たちは手厚くイエスの葬りをしようと墓の所まで来たようです。
 きっと安息日の間に、出来る限りの準備をして、安息日が明けるのを待っていたのだと思います。ところで、イエスが十字架に架かった時、側にいたのは女性の弟子たちでしたが、他の側近のように振舞っていた、男性の弟子たちはどうしていたのでしょうか。聖書の記録を見るならば、安息日から日曜日の朝にかけては、一緒に集まって、隠れるように息をひそめていたようなのです。

【最も小さい者】
 安息日が明けた朝、女性の弟子たちは、イエスを埋葬するために墓まで来ましたが、女性の弟子たちと語られる時、それは女性や男性という性の違いだけを語っているのでしょうか。
 当時の女性たちの立場という事も考えの中に入れなければならないのではないかと思うのです。なぜなら、イエスは神の国についてたとえを用いて語られた時、神が大切にされる人々について「最も小さい者」というたとえ方をされました。
 マタイによる福音書25章31節以下で、人の子が栄光に輝いて来る時のことが語られました。羊飼いが羊と山羊とを分けるように、王が人々を右と左に分けるというのです。その時、王によって選ばれた人々は、最も小さい者のひとりに良くした人々でした。
 そして、この当時の女性の立場というのは、数にも入れられない存在でした。聖書の記録を見ても、人の数を数える時「男何人」というように書かれています。女子どもは数のうちにも入らない存在でした。つまり、最も小さい者として扱われていたという事なのです。
 ここでは、具体的に女性の弟子たちに焦点が当てられていますが、女性に代表されるような最も小さい者として受け止めても構わないのではないかと思うのです。一般的には異邦人や病人、罪人と呼ばれる徴税人や安息日にも仕事をしなければならないような人たちが最も小さい者たちだったと思われます。
 さらに、それだけではなく、一人前だと勝手に思い込んでいた男性の弟子たちは、自己保身のために隠れ、自分たちも捕まるのではないかと怯えていたわけですから、彼らも最も小さな者のひとりと捉えることが出来るのではないでしょうか。
 神に愛され、神に選ばれている人というのは、それぞれの立場や状況によって、その範囲はどんどん広がっていくようなものだと思うのです。そして、広がっていくという事、つまり豊かにされていくことが大切なのではないかと思うのです。

【カラの墓】
 さて、聖書の続きを読むならば、イエスの墓に着いた時、大きな地震が起こり、天使が降って来て、墓の入り口をふさいでいた石をわきへ転がしたという事です。なんとも不思議な出来事が起こっているのです。
 この出来事が事実なのか、それとも、理解できないような事が起こったために、このように表現したのか、どちらなのかは分かりません。いずれにしても、言葉に尽くすことのできないような事が起こったというのは事実であって、そこに居合わせた女性の弟子たちは、恐れと戸惑いの中でどうして良いのか分からなくなっていたと思います。
 4節を見ると「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」と書かれています。この番兵たちはローマ兵ではありませんでしたが、祭司長たちはイエスが生前、「三日後に復活する」と言っていたことを思い出して、ピラトに番兵を置くように願い出ました。しかし、ピラトはそこまで面倒を見たくなかったのでしょう。自分たちで見張れと突き放しているのです。
 ローマ兵ほど屈強な兵士ではなかったでしょうが、ユダヤの自治組織としての私兵ですから、それなりに鍛え上げられた兵隊だったと思います。そんな番兵が、恐ろしさのあまり死人のようになるほどの出来事が起こっているのです。
 そのような状況の中で、天使は女性たちに声をかけました。天使は「イエスはここにはいない。復活なさった。そして、ガリラヤにいるから、そこで会える」と語ったのです。これを聞いた女性の弟子たちは、恐れながらも喜び、他の弟子たちにこの出来事を知らせるため急いで帰りました。
 普段は威張り散らしていたであろう、屈強な番兵たちは、恐ろしさのあまり死人のようになり、普段は虐げられていた女性たちは、恐ろしさの中にあっても、しっかりと天使の言葉を聞き、次の行動へと進んでいるのです。ここにも逆転の出来事が起こっています。

【おはよう!】
 女性の弟子たちは、天使の言葉を聞いて、行動したという事は、その言葉を信じたという事です。信じなければ、行動することはできませんし、天使の言葉を信じたからこそ、次のステップへと進まざるを得なかったのだと思うのです。気づいたら、駆け出していたということではないでしょうか。
 さらに彼女たちの心は「恐れながらも大いに喜び」と書かれているのです。恐れと喜びという対照的な言葉が並んでいますが、天使の言葉を信じた者にとって、その言葉は良き知らせ、福音となって、恐ろしさを消し去ってしまったのではないでしょうか。
 ここでは、信じることが喜びにつながっているのです。私たちの信仰を振り返ってみても同じことがあるのではないでしょうか。信じることが出来た時の喜びは、言葉に尽くせないものとして、行動や表情に現れてしまうのです。
 そして、他の弟子たちの所へと向かう途中、イエスに出会ってしまうのです。イエスは彼女たちに「おはよう」と声をかけました。聖書の中では「シャローム」という挨拶がよく知られていますが、ここでは「喜べ」と訳すことの出来る「カイロ―」というギリシャ語が使われています。これも一般的な挨拶だということですが、イエスは、復活の事実を信じた彼女たちに向かって喜びを与えて下さっているのです。
 この後、彼女たちは他の弟子たちの所へ行き、イエスの復活を伝え、ガリラヤでお会いできると伝えています。他の弟子たちが、すぐに彼女たちの言葉を信じたかどうか分かりません。疑う者もいたと書かれていますので、信じられない者もいたという事です。
 しかし、イエスは信じようが、信じまいが、弟子たちに、そして、今、この聖書を読んでいる私たちに向かって「喜び」を宣言されるのです。
 悲しい出来事、不条理な出来事が、私たちの周りにはたくさんあります。そして、それらによって引き出される否定的な思いが私たちの心を縛ってしまうのが現実かも知れません。そのような私たちの前に、イエスは来てくださるのです。そして「おはよう」と声をかけ、恐れから解放し、喜びで満たしてくださるのです。

祈 り
讃 美   新生493 み子イエス世人のため
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏