前 奏
招 詞   ダニエル書7章13節
賛美歌   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
賛美歌   新生252 喜べ主を
主の祈り
賛美歌   新生131 イエスのみことばは
聖 書   マタイによる福音書28章16~20節
                      (新共同訳聖書 新約P60)
宣 教   「裏切りも恐れず」     宣教者:富田愛世牧師
【異邦人のガリラヤ】
 先週は世界中に大きな衝撃が走りました。私には直接関係はありませんが、カトリック教会のフランシスコ教皇が天に召されました。日本のニュースではほとんど取り上げられていませんでしたが、前日の日曜日はイースターだったので、海外のニュースではフランシスコ教皇がイースターに合わせて、人々に顔を見せ祝福している姿がありました。
 2週間くらい前までは、入院していて体調がすぐれないという報道を聞いていたので、報道を見て少し元気になったのかなと思っていた矢先でしたので、びっくりしました。中南米出身の初めての教皇だという事で話題にもなり、その姿勢が「最も小さい者」に寄りそうものだったという事で、カトリック教会内でも大きな評価を得ていた方ですから残念な気持ちがしています。
 さて、今日の聖書に目を向けていきたいと思いますが、復活のイエスが弟子たちに告げたことは「先にガリラヤで待っている」という事でした。女性の弟子たちから、その言葉を聞いた11人の弟子の中には「疑う者」もいたという事ですが、それでも11人の弟子たちはガリラヤへ行ったようです。
 このガリラヤというのは、その地域全体の呼び方で、ガリラヤ地方にはベトサイダ、カナ、ナザレといった町がありました。全体的に緑豊かな美しい地方だと思われています。新生讃美歌207番には「緑も深き、若葉の里、ナザレの村よ、汝がちまたを」と歌っているので、この賛美歌から受ける影響も大きいのではないかと思います。
 しかし、ヨハネによる福音書1章46節を見るとフィリポという人がイエスに出会い、イエスの弟子になったすぐ後、ナタナエルという人に会い「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と言いましたが、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えているのです。
 また、異邦人のガリラヤなどと呼ばれるように、ユダヤ社会の中央、つまり、祭司や律法学者といった宗教指導者たちからするならば、取るに足りない、注目するに値しないような地域だったのです。
 ただし、それはユダヤ社会の見解であって、世界的に見るならば、交通の要所として異邦人が行き交い、商取引の盛んな地域だったようです。世界的には繁栄した、活気ある地域でしたが、異邦人との関わりを避けていた、熱心なユダヤ教徒にとっては堕落した地として映っていたのです。
 イエスが育ったのは、このガリラヤ地方のナザレという村でした。ガリラヤ地方で、ナザレ村で、そこに住む人々と共に成長し、生活したのがイエスでした。その後、神からの召命を受け、神の国について語り始めたのもガリラヤ地方でした。そして、復活のイエスに出会う場所もガリラヤだったのです。

【イエスはどこに】
 復活のイエスは弟子たちにガリラヤで待つように指示しましたが、なぜ、ガリラヤだったのでしょうか。明確に「こうです」という答えはありません。しかし、福音書を通して明らかにされる、イエスの働きから見ていくならば、ガリラヤこそがイエスの居場所だったからではないでしょうか。
 イエスがおられる場所、それは神殿ではなくガリラヤだったのです。イエスの生い立ちを見るならば、大工の子として生まれたのですから、当時の常識で考えるなら、イエスも大工の仕事をしていたと思われます。神殿にいる祭司や貴族階級の人々とは違うのです。
 そして、30歳になって公生涯と呼ばれる宣教活動を始めたのもガリラヤでした。神殿に出向き、神を礼拝することも大切なことです。しかし、すべての人が、神殿に出向き、礼拝することが出来たのかと考えると、必ずしもそういうことではないようです。
 その日の生活に追われ、神殿に出向くこともできずにいる人々もたくさんいたはずです。また、ユダヤの律法によって、神殿への出入りを禁じられていた、病人や罪人と呼ばれる人もたくさんいたはずです。
 そのような人々に、神の国について伝えるのは誰だったのでしょうか。イエスにはそのような使命があったのではないでしょうか。
 そして、そこでイエスは弟子たちを迎えてくださるのです。イエスに迎えられた弟子たちでしたが、その中には疑う者もいたと聖書は証言しています。これが現実の姿なのです。

【裏切られるイエス】
 安息日が明けた朝、マリアたちがイエスの埋葬された墓から帰って来て、他の弟子たちに「復活された」と告げた時、その言葉を信じて、喜んだ弟子もいたでしょうが、疑う弟子もいたと聖書は語ります。
 イエスの十字架を前にして、イエスを見捨てて逃げて行った裏切り者の弟子が、今度はイエスの復活まで疑うのです。結果を知っている私たちからするならば、なんて情けない、愚かな奴だ。と思うかも知れません。それでもイエスは疑う者を「弟子」と呼ばれるのです。
 私たちは「弟子」という言葉に対して、ある種の固定観念を抱いているかもしれません。伝統的な日本のものづくりでは、熟練した職人さんが無くてはならない存在です。そして、熟練した職人がその技を伝えていくために「弟子」を取ります。弟子は師匠に対して、尊敬の念を抱き、従順に従うことが求められます。師匠を裏切るなど、もってのほかです。
 ところが聖書に登場する「弟子」は、そのような弟子とは違っているのです。師匠であるイエスが十字架に架かった時、弟子たちは逃げ去りました。裏切っているのです。しかし、そんな裏切り者に向かって、イエスは「弟子」と呼ぶのです。
 イエスの弟子とは、イエスに対して尊敬の念を抱き、従順に従う者ではありません。もちろん、そのように出来れば素晴らしいのでしょうが、現実はそうではありませんでした。イエスが「弟子」と呼ぶ時、イエスにとって必要なものは信頼関係だったのです。
 信頼関係という時、私たちはお互いに信頼し合うことをイメージしますが、イエスにとっては、信頼を受けるという事よりも、信頼するという事が重要だったようです。
 イエスの信頼は、裏切らないという信頼ではなく、裏切られることを恐れず、相手に対して、人間として信頼するという事なのです。裏切られても、裏切られても、また、信頼するということ。とにかく、相手を信じて信じて、信じぬくという事がイエスの姿なのです。

【弟子】
 つまり、イエスが主体となって、一方的に信頼する相手が弟子なのです。私たちが、どうのこうのということではないのです。
 そして、イエスは弟子を世界に遣わすと宣言されます。世界に遣わすと言っても、イエスが定義する弟子は、私たちのイメージする弟子とは違っています。イエスを裏切り、逃げてしまうようなものであっても弟子だと言ってくださるのです。
 もしそうなら、イエスからの使命を受けて、世界に遣わされたとしても、途中で裏切り、逃げ出してしまうような者たちに任せることが出来るのでしょうか。しかし、イエスは無責任に「出ていきなさい」と遣わすのではありません。一つの大きな約束を与えてくださるのです。それは「共にいる」という約束なのです。
 共にいるという事に、どれだけの意味があるのかとおっしゃる方がいるかもしれません。しかし、よく考えてみてください。
 私は中学生の頃、大阪の北や南の繁華街に行ったことがあります。人の多さは経験したつもりでいました。ところが受験のために東京に来て、渋谷のスクランブル交差点からパルコまでの道を歩いた時、人の多さに驚きました。何か大きなイベントがあって、そこに向かう人の波だと思いました。
 とにかく大勢の人がいる。しかし、その他大勢に中にいれば、いるほど、孤独を味わう人が多いという事が統計上明らかになっています。
 私たちの中にも、孤独を感じ、心細くなり、不安を感じる方がいるかもしれません。そのような私たちに対して、イエスは「共にいる」と語ってくださるのです。そして、この約束は「インマヌエル」の出来事なのです。
 インマヌエルの出来事とは、イエス誕生の時に天使が語った約束です。イエスがこの世に来られるという事は、神が私たちと共にいてくださるという事なのです。
 そして、弟子を遣わすにあたって、この約束をもう一度、弟子たちに与えられるのです。弟子というのは特別な人々ではありません。イエスに従いたいと思っていても、自分に不都合なことが起これば、すぐに裏切ってしまうような、情けない者たちなのです。しかし、イエスが語られる約束を信じ、イエスが共にいてくださると告白する時、イエスは私たちを弟子として迎え入れてくださるのです。

祈 り
賛美歌   新生568 この旅路は険しいけれど
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏