前 奏
招 詞   箴言23章18~19節
賛美歌   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
賛美歌   新生 29 父なるみ神
主の祈り
賛美歌   新生363 キリスト教会の主よ
聖 書   ガラテヤの信徒への手紙4章8~11節
                     (新共同訳聖書 新約P347)
宣 教   「あなたが心配」    宣教者:富田愛世牧師
【かつてのあなた方Ⅰ】
 ガラテヤの信徒への手紙を読み始めて、今日で3回目になります。連続して読んできているわけではないので、今日は4章8節から11節までを読みましたが、この手紙が書かれた背景については理解できていると思って進めていきます。
 前回は2章15節から21節までを読みましたが、そのすぐ後の3章1節には、かなり厳しい言葉が書かれています。そこには「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」という言葉があります。しかし、この言葉はパウロのガラテヤの信徒たちに対する思いの裏返しではないかと思うのです。
 その後に、律法と福音との関係を丁寧に説明して、そして、今日の4章8節に続いているのです。ここには「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。」とあります。
 ここでパウロがイメージしている「かつてのあなた方」とはどのような人々だったのでしょうか。単純に考えて3種類の人々が想定できると思います。初めにユダヤ人、次に異邦人、そして、最後はユダヤ人と異邦人、両方に向けていると思うのです。
 パウロは異邦人の使徒として活動していたと考えられているので、ここでも異邦人か、もしくは異邦人とユダヤ人の両方を念頭に書いているのかな?と思われるかもしれません。しかし、使徒言行録13章5節を見ると、第一回目の伝道旅行でキプロス島に渡った時、「ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。」と書かれているので、ユダヤ人中心だったのかも知れません。
 もし、ユダヤ人の教会だったとするなら8節の言葉の意味が分かりにくいと思うのです。ユダヤ人ならば、神を知らずにという事にはならないはずです。しかし、パウロはここで思い切った言い方をしているのかも知れません。
 ユダヤ教の律法主義者たちは、律法を神の代わりにしていたと考えることもできるのです。もし、そうだったとするなら、このように書いたという事も合点がいきます。神ではなく、律法第一主義になっていたとするなら、律法の奴隷として、律法に仕えていた、だから無力で頼りにならない、律法主義に逆戻りしないで欲しいと訴えているのかも知れません。
 そして、10節ではユダヤ教の祭儀を守ることに必死になってしまっている現状を語っているのではないでしょうか。そのような意味のないことをしているとすれば、あなたがたが心配でならないという、パウロの心境が伝わってくると思います。

【かつてのあなた方Ⅱ】
 次に二番目の異邦人に向けて語られているとすれば、どうなのでしょうか。ガラテヤ地方は、現在のトルコの一部ですが、私はトルコという国は大陸の中央にあるイメージを持っていました。しかし、良く調べるとアナトリア半島という半島が大部分を占めている国なのです。
 アナトリア半島とは、聖書の中では小アジアと表記されることの多い地域で、南は地中海、西はエーゲ海、北は黒海と、三方を海に囲まれているのです。そして、このアナトリア半島は、三大文明の一つであるメソポタミア文明の影響を強く受けた地域だという事なのです。
 地理的にアジアとヨーロッパの間に位置しているので、古くはヒッタイト王国、リディア王国、ペルシア帝国、アレクサンドロス帝国と大国による支配が続き、パウロの時代はローマ帝国の支配下にありました。
 このように様々な国に支配されていたので、そこに住む民族も同一の民族が住み続けていたわけではなく、BC5000年頃はヒッタイト人という民族が住んでいたそうです。これがヘブライ語聖書に出てくるヘト人のことで、イサクの兄であるエサウの妻はヘト人でした。また、ダビデはヘト人ウリヤから妻のバト・シェバを奪っています。このようにユダヤ人との関係が深い民族でもあるようなのです。
 BC2000年頃には、ヒッタイト王国が建てられヒッタイト人が中心的な民族でしたが、その後も様々な民族が入り乱れながら、パウロの時代はギリシア系の民族が大半を占め、ユダヤ人中心の町も見られたそうです。
 このような歴史を持っているので、宗教的にも様々な神々が入って来たようですが、比較的長い間、信仰されてきたのがバアル神でした。ただし、ギリシアの影響も強く受けているので、アルテミスやギリシア神話の神々を信仰する人々もいたようです。8節にでてくる、神ではない神々とは、そのような神々だと捉えることが出来ます。

【かつてのあなた方Ⅲ】
 そして、三つ目の考え方として、ガラテヤ地方の諸教会にはユダヤ人も、異邦人もいたのではないかという事です。きっと、これが正解ではないかと思います。
 パウロは異邦人の使徒と呼ばれているので、異邦人にしか興味を持っていないようにイメージするかもしれませんが、ユダヤ人を排除しているわけではありません。
 そして、パウロの伝道スタイルについても、辻説法的に街角に立って話をするという事もあったでしょうが、パウロの性格的に、そのような非効率な方法も時にはとったでしょうが、もっと効率的な方法を取っていたと思うのです。
 自分の同族である、ユダヤ人の共同体を足掛かりにして、人々を集めたのではないかと思うのです。そのように考えるならば、8節は特に異邦人に向けて語った言葉で、10節はユダヤ人に向けて語っているというように、特定の人にだけ語っているのではなく、そこに集まっている、様々な背景を持つ人々に向かって語っているのではないかと思います。
 いずれにしても、かつてのあなた方は、神ではない神々に仕えていたという事です。そして、神ではない神々に仕える時に共通することは、その神々の奴隷になってしまうという事です。
 ユダヤ人は律法の奴隷になっていました。異邦人は神々の奴隷になっていました。奴隷になるという事は、対等の関係ではなくなり、主従の関係となり、主である神のために、従である人間は仕えなければならないという事です。人間に仕えられなければならない神とは、9節にあるように「無力で頼りにならない支配する諸霊」という事なのです。
 この神ではない神々との関係は、現代の教会にも共通するものがあります。現代の日本社会では「宗教は怖い、危険」という思いを持つ人が大半を占めているように感じます。ですから、神ではない神々に仕える人は、手を変え、品を変えて、私たちの近くで誘惑してくるのです。その謳い文句の多くは「宗教ではありません」ということを最初にうたい、次に「文化です」「日本の伝統です」「スピリチュアルなパワーです」等と相手を安心させる言葉でささやいてくるのです。
 10節の「日、月、時節、年」なども、聖書ではユダヤ教の祭儀を指しているという事ですが、現代における星占いなどの占いや風水、パワースポット系のグッズなどは、パウロからすれば「無力で頼りにならない支配する諸霊」の一つなのです。

【あなたが心配】
 このようなガラテヤの諸教会の信徒たちに向かって、11節では「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」と嘆いているのです。
 パウロの伝道活動は、簡単なものではなかったはずです。コリントの信徒への手紙二11章16節からパウロは使徒としての労苦について語っています。その中の26節から29節にこうあります。
「しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」
 このような苦難にあいながらも、キリストの福音を伝えることを優先してきたのです。なぜなら、そこには解放された喜びがあるからなのです。
 ところが、今、ガラテヤの信徒たちが、神ではない神々の奴隷に戻ってしまったとするなら、自分の働きが無駄だったと、認めなければならないというのです。もし、この思いだけだったとするならば、それはパウロの自己満足だと思われるかもしれません。しかし、それだけではなく「あなたがたのことが心配です。」と語るのです。
 つまり、自分の労苦など、あなたがたが神ではない神々の奴隷に戻ってしまうことに比べるなら、取るに足りないことだと感じているのではないでしょうか。パウロにとって、ガラテヤの諸教会にいる信徒たちは、わが子のような存在なのです。
 しかし、現状はどうかというと、パウロの教えを不完全なものだと見なしているわけですから、パウロを裏切っているのです。ガラテヤの諸教会にいる信徒たちに裏切られたパウロですが、この期に及んで「心配」しているのです。このような思いこそが、聖霊によって後押しされたものなのではないでしょうか。
  
祈 り
賛美歌   新生618 主のためにわれは生く
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏